1795年、ワーズワスは英国各地を彷徨した後、ブリストルでサミュエル・テイラー・コールリッジと出逢う。後に二人は意気投合して親友となる。ワーズワスは妹ドロシーと合流し、ドーセットのレイスダウン・ロッジ居住を経て、1797年、サマーセットのコールリッジの住居(Coleridge Cottage, Nether Stowey
, Somerset)の近く(Alfoxden, Holford)に転居する。こうしてワーズワスは妹との同居とコールリッジとの親交の中、数段階を経てモラル・クライシスから回復した。1798年、ワーズワスとコールリッジは『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』を共同で著し、出版する。当時の彼らの様々な創作活動の中で、当初軽い気持ちで出版したこの書物は、後に至り英国ロマン主義において画期的となる作品集と評価されることとなる。また第2版の1800年版にはワーズワスの散文の長いまえがきが添えられ、ワーズワスの詩論が表明されているが、これは英国ロマン主義のマニフェストともいわれてきた。なお、このサマーセット滞在の時期にワーズワスとコールリッジが政府のスパイに監視されていたことは有名で、コールリッジ自身の『文学的自叙伝』(Biographia Literaria, 1817) にユーモラスに記録されている。
この後1798年から1799年にかけての冬、ワーズワスはコールリッジ、ドロシーと共にドイツに旅行する。兄妹は間もなくコールリッジとは別れゴスラーに滞在する。ワーズワスは精神の圧迫にもかかわらず、後に『序曲(The Prelude)』と題されるコールリッジに宛てた自伝的長詩の作品を書き始め、また『ルーシー詩篇』を含む多数の代表的な詩を書き、一部は1800年の『抒情民謡集』第2版に収められた。このゴスラー滞在の後兄妹はニーダー・ザクセンのハルツ地方を彷徨するが、4月半ばに至りゲッティンゲンでコールリッジと再会するまでは何をしていたか詳細はわからない。一説に政府のスパイ活動をしていたのではないかという憶測もあったが、その可能性は否定された。 1799年5月に入りイギリスに帰国したワーズワスは、幼なじみで後に結婚することになるメアリ・ハチンスン(Mary Hutchinson)の家族が経営するダラム郡の農場に滞在した後、12月末に湖水地方のグラスミア湖近くのタウン・エンド(Town End, Grasmere
再び湖水地方へ:グラスミア在住(1799 - 1813)
1802年、アミアンの和約で英仏間の往来が可能になり、アネットと娘キャロライン(カロリーヌ)に会うため、ワーズワスは妹ドロシーと共にフランスに旅行する。この旅はアネットとの関係を清算する意味があったようで、キャロラインの養育費についても話し合いがついた。帰国後この年の秋にワーズワスはメアリー・ハチンソンと結婚した。翌年、メアリーは第一子ジョンを出産する。ドロシーは、この後もずっと生涯兄とその妻、彼らの家族とともに同居を続けた。
1807年、ワーズワスは『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』以降の抒情詩を蒐集した『二巻詩集』(Poems in Two Volumes)を出版する。彼の傑作詩を多く含んだこの詩集は、「大哲学的叙事詩」を期待していたコールリッジにとっては期待外れだったが、後にはワーズワスが評価される要因ともなった。しかしこのころまで経済的窮乏は続いていた。ワーズワスはグラスミアではタウン、エンドからアラン・バンク、グラスミア牧師館を転々としたが、この間二人の子を失っている。またあれほど親しくしていたコールリッジとも1810年頃から不仲になっていった。一方ワーズワスはこの時期に散文も書いており、1808年には政府のナポレオンとの協定を批判する『シントラ協定』Convention of Cintra を書き始め翌年出版。さらに後に彼の『湖水地方案内』として詩集以上に人気を集めた散文の初版を1810年に無記名で公開している。なおグラスミアでは牧師館在住時にこの地の学校で教鞭もとったという。 1813年に至ると、親しくなったロンズデール伯爵ウィリアム・ラウザー
評価と名声:ライダル・マウント(1813 - 1833)
ワーズワスの父は先代のロンズデール伯爵(英語版)ジェームズ・ラウザーの事務弁護士を長年勤めていたが報酬が未払いのまま両者とも死去していた。先代の死去の後に爵位を継承したウィリアム・ラウザーによりこちらの負債問題もすでに解決しており、ワーズワスは印紙販売官の公職ともども経済的に安定した。