ウィリアム・ラム_(第2代メルバーン子爵)
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その後、ウィリアム・ハスキソン指導下のカニング派に属して野党となった。1828年に爵位を継承し、貴族院議員となる。1830年のハスキソンの死後にはカニング派を継承。ホイッグ党との連携を推進し、同年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣した(→カニング派としての野党期)。

代わって成立したホイッグ党政権のグレイ伯爵内閣に内務大臣として入閣。同内閣で行われた第一次選挙法改正をめぐっては慎重派だった(→ホイッグ党政権の閣僚)。

1834年7月にグレイ伯爵が首相を辞職すると代わって組閣の大命を受け、第一次メルバーン子爵内閣(英語版)を組閣した。しかし国王ウィリアム4世と人事案をめぐって対立を深め、同年11月に罷免された(→第一次メルバーン子爵内閣)。

後任の保守党政権第1次ピール内閣を1835年4月に総辞職に追い込み、第二次メルバーン子爵内閣(英語版)を成立させた。改革を抑えることを条件に与党攻撃を控えるという協約を野党保守党と結んで政権運営を行った(→組閣までの経緯)。1837年6月に即位したヴィクトリア女王から相談役として信頼され、寵愛を受けた(→ヴィクトリア女王即位)。1838年に盛り上がった労働者運動チャーティズム運動は徹底的に弾圧した(→チャーティズム運動取り締まり)。1839年5月には議会掌握の行き詰まりで辞表を提出したが、後任ピールの寝室女官人事を女王が拒否する事件があったため、メルバーンが続投することになった(→寝室女官事件)。在任中、外務大臣パーマストン子爵の主導で阿片戦争第一次アフガン戦争を開始し、またベルギー独立革命や第二次エジプト・トルコ戦争の仲裁を行った(→外交問題)。1841年6月の解散総選挙(英語版)にホイッグ党が敗れた結果、総辞職した(→総辞職)。

首相退任の翌年1842年にホイッグ党党首の座をジョン・ラッセル卿ランズダウン侯爵に譲った。退任後も女王と親密だったが、女王の相談役は夫アルバート公子に転じつつあったため、宮中での影響力も低下していった。1848年に死去(→首相退任後)。
経歴
生い立ち若い頃の肖像画(トマス・ローレンス画)

1779年3月15日、初代メルバーン子爵ペニストン・ラム(英語版)の次男としてロンドンに生まれた。母はその夫人エリザベス(英語版)。

母の浮気相手エグルモント伯爵(英語版)の子とも言われる[2][3]。ラム家は代々ホイッグ党支持の家系であった[2]

イートン校を経てグラスゴー大学ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。その後、リンカーン法曹院に入学し、1804年弁護士資格を取得した[4]

ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄ペニストン(英語版)の死により跡取りとなった[2]。同年にベスバラ伯爵(英語版)の娘で小説家のキャロライン・ポンソンビーと結婚した[2][5]
若手議員

1806年にレオミンスター選挙区(英語版)から初めて庶民院議員に当選した[4]。所属政党は当初ホイッグ党だったが、1812年にはカトリック解放を支持したために落選の憂き目を見た[6]

1816年に再選された際にトーリー党へ移籍した[7]。トーリー党内の自由主義派であるジョージ・カニングの支持者になっていった[6]妻キャロライン

彼の名前が一般に知れ渡ったのは、1812年の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人バイロン男爵との不倫に走ったのである。この結果、2人は1825年に離婚した[2][5]

一方でウィリアム自身も国王ジョージ4世の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した[5]。二人の女性から離婚をめぐり訴えられたことがあるほどである[8]
トーリー党政権の閣僚

1827年4月にトーリー党穏健派とホイッグ党穏健派による連立政権ジョージ・カニング内閣が誕生すると、そのアイルランド担当大臣(英語版)(閣外大臣)となった[7]


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