ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
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1910年(明治43年) - 米国へ帰国し、メンソレータム社の創業者ハイドと出会う[7]。10カ月の滞在後、建築家のレスター・チェーピンらを伴って日本に戻る。建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立。

1911年(明治44年) - ヴォーリズ建築設計事務所竣工。

1912年(明治45年・大正元年) - ヴォーリズ合名会社軽井沢事務所を開設[7]

1913年(大正2年) - 病気療養のため米国へ帰国。ハイドに再会。日本でのメンソレータム販売代理店となる[7]

1914年(大正3年) - 日本に移住する両親を伴い、近江八幡に戻る[7]

1915年(大正4年) - ヴォーリズ合名会社束京事務所開設。

1918年(大正7年) - 結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム、現:ヴォーリズ記念病院)開設。

1919年(大正8年) - 子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。

1920年(大正9年) - ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立する。

1922年(大正11年) - ヴォーリズ建築事務所大阪事務所開設。

1923年(大正12年) - 紫苑会館内にシオン幼稚園を開園。

1930年 - 母校コロラドカレッジよりLLD(名誉法学博士号)を受ける[注 2]

1934年(昭和9年) - 「近江ミッション」を「近江兄弟社」と改称。また、「湖畔プレス社」を設立。

1941年(昭和16年) - 日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称。

1944年(昭和19年) - 株式会社近江兄弟社を設立。一柳建築事務所を解散。建築設計業務を停止[7]

1945年(昭和20年) - 太平洋戦争に敗れた日本に進駐したマッカーサーと近衛文麿との仲介工作を行う。

1946年(昭和21年) - 近江兄弟社内に建築部が復活。建築設計業務を再開[7]

1951年(昭和26年) - 藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、『失敗者の自叙伝』を『湖畔の声』に連載(1957年まで)。

1957年(昭和32年) - くも膜下出血のため軽井沢で倒れ、療養生活に入る。

1958年(昭和33年) - 近江八幡市名誉市民第一号に選ばれる[1]

1961年(昭和36年) - 黄綬褒章を受章(建築業界における功績による)。株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所が独立し、大阪に事務所を開設[7]

1964年(昭和39年) - 近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現:ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。83歳。近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)[注 3]に収められる。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する。

2014年(平成26年) - 神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築初の重要文化財に指定される。

代表建築ウィキメディア・コモンズ日本語版カテゴリページにも画像があります。
教会関係

(学校付属の教会建築は#学校を参照)

建造物名年所在地状態備考
近江八幡YMCA会館1906年(明治39年)25滋賀県近江八幡市ヴォーリズの第一作。同会館内に建築設計監督事務所を開業している[7]
/日本基督教団福島教会1909年(明治42年)07福島県福島市現存せず。国の登録有形文化財だったが、東日本大震災で被災して取り壊し[8]
/日本バプテスト同盟京都バプテスト教会1912年(明治45年)26京都市上京区礼拝堂部分のみ現存
/日本基督教団京都御幸町教会1913年(大正2年)26京都市中京区京都市指定有形文化財
/国際青少年センターYMCA東山荘1915年(大正4年)静岡県御殿場市宿泊・研修施設


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