ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
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その作品はいわゆるアメリカンスタイルとして、住宅やオフィスビルに新しい作風をもたらすものとなった。

1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。「米来留」とは「米国より来りて留まる」という洒落である。

近江商人発祥の地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動した。夏季には避暑地長野県軽井沢に拠点を移し、こちらでも数多くの建築を手がけた[注 1][5]。また、太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される[6]

関西学院大学

近江兄弟社中学校・高等学校

日本基督教団 大阪教会

池田町洋館街

神戸旧居留地38番館

略歴

1880年 - 米国カンザス州レブンワースで生まれる。

1882年 - この頃から教会の礼拝に出席するようになり、後日、幼児洗礼を受ける。

1887年 - 米国アリゾナ州フラッグスタッフに一家で転居。イーストデンバー高校に入学[7]

1900年 - イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始。

当初は建築家志望でマサチューセッツ工科大学への入学が決定していたが、家庭の経済状況を考えて近くのコロラドカレッジに入学。


1902年 - 学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。この頃、のちの関西学院第4代院長のベーツと知り合う。文系課程に転じる。

1904年 - コロラドカレッジ哲学科を卒業し、コロラドスプリングスYMCAの主事補となる。

1905年(明治38年) - 滋賀県立商業学校(現:滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日[1]

1907年(明治40年) - 近江ミッション(近江基督教伝道団)を創設。

1908年(明治41年) - 京都YMCA会館新築工事現場監督を担当。同会館内に建築設計監督事務所を開業する(後のヴォーリズ建築事務所)[7]

1910年(明治43年) - 米国へ帰国し、メンソレータム社の創業者ハイドと出会う[7]。10カ月の滞在後、建築家のレスター・チェーピンらを伴って日本に戻る。建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立。

1911年(明治44年) - ヴォーリズ建築設計事務所竣工。

1912年(明治45年・大正元年) - ヴォーリズ合名会社軽井沢事務所を開設[7]

1913年(大正2年) - 病気療養のため米国へ帰国。ハイドに再会。日本でのメンソレータム販売代理店となる[7]


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