ウィリアム・ヘイスティングス_(初代ヘイスティングス男爵)
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閣下
初代ヘイスティングス男爵
KG
初代ヘイスティングス男爵ウィリアム・ヘイスティングスの紋章

配偶者キャサリン・ネヴィル(英語版)
子女一覧参照
家名ヘイスティングス家
父親サー・レオナルド・ヘイスティングス
母親アリス・カモイズ
出生1431年
死亡1483年6月13日(諸説あり)[1]
ロンドン塔
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初代ヘイスティングス男爵(英語版)ウィリアム・ヘイスティングス(William Hastings, 1st Baron Hastings, KG, 1431年頃 - 1483年6月13日)は、薔薇戦争期のイングランドの貴族・政治家。ヨーク朝のイングランド王エドワード4世に取り立てられ台頭、エドワード5世即位前後の派閥抗争では叔父のグロスター公リチャード(後のリチャード3世)の力を借りて外戚のウッドヴィル家を排除したが、直後に自分もグロスター公に見限られ処刑された。
生涯

ヨークシャー出身のジェントリで、低い出自ながらウォリックシャーレスターシャー州長官を務め、ヨーク派に仕えランカスター朝と戦い、エドワード4世から忠勤を認められ1461年に宮内長官(英語版)と男爵位を授与された。エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークブルゴーニュシャルルの縁談を進める役目も任され、次第にエドワード4世に重用されていった[2][3][4]

1470年ウォリック伯リチャード・ネヴィルがランカスター派に寝返って反乱を起こし、エドワード4世が窮地に立たされた時も彼を見捨てず、エドワード4世の弟グロスター公(後のリチャード3世)、義弟のリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルらと一緒にブルゴーニュへ亡命、翌1471年のエドワード4世のイングランド上陸にも同行し、バーネットの戦いテュークスベリーの戦いでグロスター公と共に部隊指揮を任され奮戦した。戦後はグロスター公指揮下の軍に加わりケントで残敵掃討、ハワード男爵ジョン・ハワードと共にカレー鎮撫に努め、ケントのランカスター派は降伏しカレーをヨーク派支持に変えることに成功、外戚ウッドヴィル家と並ぶ側近にのし上がっていった[2][5]

だが、ヘイスティングス男爵は有能な行政手腕を買われたが、エドワード4世の放蕩仲間でもあったため身持ちが悪く、王が下げ渡した女を巡りリヴァーズ伯の弟エドワードと甥(リヴァーズ伯の姉で王妃エリザベス・ウッドヴィルと先夫の長男)のドーセット侯トマス・グレイ(英語版)と対立、互いに相手を中傷し合った。リヴァーズ伯も希望したカレー副総督を1471年にヘイスティングス男爵が任命されたことを恨み、ヘイスティングス男爵はバッキンガム公ヘンリー・スタッフォード、スタンリー男爵トマス・スタンリーなど旧来の貴族を味方に付けてウッドヴィル家を敵に回し、両者の派閥抗争は将来に暗雲をもたらした[6]

1483年4月9日にエドワード4世が亡くなると、ヘイスティングス男爵とウッドヴィル家の権力闘争が始まり、先手を打ったウッドヴィル家は国庫と海軍を抑え諮問会議の主導権も握った。対するヘイスティングス男爵はカレーに引き上げると言いだしウッドヴィル家に抵抗、グロスター公とバッキンガム公に助けを求め巻き返しを図った。この作戦は成功しラドロー城からロンドンへエドワード5世を連れて行軍していたリヴァーズ伯とドーセット侯の弟リチャード・グレイは30日にグロスター公の手勢に拘束、ロンドンでエリザベス・ドーセット侯らの抵抗はあったもののすぐに鎮静化、恩賞としてグロスター公から5月20日に造幣局長官を追加された[2][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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