このころ創作面では、イェイツの作品のうち最も広く知られる詩の一つ「湖の島イニスフリー(英語版)」(The Lake Isle Of Innisfree)を含む詩集『キャスリーン伯爵夫人および諸伝説と抒情詩(英語版)』(The Countess Kathleen and Various Legends and Lyrics, 1892年)などを発表するほか、オカルティズムへの傾倒を深め、1887年に当時のロンドンで人気を集めていた「神智学協会」のヘレナ・P・ブラヴァツキーの元に赴いて、彼女に人間性の豊かさを感じ、協力会員になった[98]。イェイツはオカルトに惹かれたが、同時に懐疑の目を向け、超自然界・超自然現象の証を求めて実験に固執したため、耐えかねたブラヴァツキーから退会勧告を受け、1890年に退会した[99]。同年、ケルトを自称するマグレガー・メイザースが中心となって作り上げたカバラ、錬金術、占星術、タロット等から成る体系に基づく「黄金の夜明け団」に入団[100]。メイザースは会員に魔術の実験やデモンストレーションの機会を多く与え、イェイツは儀式での体験に魅了され、研究に没頭した[101]。アニー・ホー二マン(英語版)がメイザースのパトロンであり、イェイツに続いて女優・演出家のフローレンス・ファー、モード・ゴン[注 10]、トッドハンター、スライゴの叔父ジョージ・ポレックスフェンが入会している[103]。このオカルト教団は型破りな女性会員の比率が高く、「ニュー・ウーマン」の彼女たちはイェイツの芸術に影響を与えた[103]。1892年にメイザースがパリに移ると、彼とロンドンの会員の関係は悪化し、メイザースは教団の支配権回復のために悪名高いアレイスター・クロウリーを送り込み、イェイツはクロウリーに対抗するために教団運営に関わるようになり、教団本部に無断侵入しようとしたクロウリーを告訴し勝訴[104]。メイザースはロンドンの教団から追放され、イェイツが深く影響を受けた彼との関係は終了した[104]。教団内のいざこざは続き、イェイツと親しいホーニマンとファーが教団の運営をめぐって対立、彼はホーニマンについたが、多数派のファーのグループが実質的に勝利し、イェイツは教団運営から手を引いた[104]。教団はさらに怪しげなアメリカ人オカルト詐欺師夫婦によるスキャンダルに巻き込まれて評判は地に落ち、名称を変更し、二派に分裂[104]。