ウィリアム・バトラー・イェイツ
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彼はアイルランド独立運動に参加しており、部分的には信念のためだったが、主な理由はモード・ゴンへの愛だった[2][8][45]。英文学者の松島正一は、愛するモード・ゴンが実際的な活動家であったことから、イェイツはアイルランド文芸復興という実際的な問題に引き込まれたと述べている[79]

またモードと前後して、奔放で闊達な女優フローレンス・ファー(英語版)と出会う[61]アーサー・シモンズ

1890年耽美・唯美主義を標榜する詩人たちと語らってライマーズ・クラブ(英語版)を結成、酒場に集まって、自作の詩の朗読と互いの批評を繰り返した[80][81]。この集まりには同世代のアーネスト・ダウソンアーサー・シモンズ、ライオネル・ジョンソン(英語版)のほか、年長のオスカー・ワイルドも参加することがあった[81]。イェイツはこの集まりを通じてフランス象徴派詩人たちの活動に触れることになったほか、この酒場で浸った芸術至上主義こそ自分の詩作の原点だったと後に振り返っている[82]。英文学者の高松雄一は、「彼らは『芸術のための芸術』を重んじ、政治、倫理、教育、合理主義などを排除する。つまり市民社会を構築する精神を否定して、神秘的かつ象徴的な心的傾向に接近し、表現上の技法には職人の良心をもってこだわるが、何を伝えようとするのか、言葉の意味伝達に対する関心は薄れる。」と説明しており、彼らの「詩人は選ばれた人間として人々に語りかけるというロマン主義の心意気」は、詩人は呪われた存在であり社会に背を向けるという歪んだ形になり、「『芸術家』対『市民』」という世紀末独特の対立構造として成立した[65]。彼らの社会からの疎外感は非常に強かったと思われ、人目に付くイギリス紳士の服装で芸術家であることを誇示しており、高松雄一は「テロリストの心得を思わせる」と評している[83]

イェイツはこの頃世紀末デカダン派に属していたが、本質的に破滅型の詩人ではなかった[84]。ライマーズ・クラブの面々は酒と女に溺れ、オスカー・ワイルドが同性愛をめぐる裁判に敗訴し1895年に投獄されたことを境目に、1890年代半ば以降にクラブは崩壊していった[85]オリヴィア・シェイクスピア

この頃、ライマーズ・クラブで特に親しかったジョンソンのいとこで、美貌と高い文学的素養を持つオリヴィア・シェイクスピア(英語版)[注 9]に出会い[87]、1896年に既婚者であった彼女と恋愛関係になり、逢引き場所が必要だったイェイツはアーサー・シモンズの誘いを受けて初めて実家を出て独立し、彼とルームシェアするようになった[88]。二人は数か月同居し親しくなり、フランス象徴派詩人の紹介や翻訳で知られていたシモンズは、マラルメなどフランス象徴主義文学への関心を深めていたイェイツがヴェルレーヌと面会できるよう取り計らい、フランス象徴派の文献を読んでやるなど、様々にサポートし、重要な文学的影響を与えた[89]。オリヴィア・シェイクスピアと出来たら駆け落ちしようというところまで行ったが、その直前に彼女の母が亡くなったこと、駆け落ち後の経済的な当てがないこと、演劇運動の計画や、モード・ゴンヘの思いを断ち切れなかったこと等が重なり、二人の関係は宙ぶらりんなままになり、以降長く友人として交友した[89][37][90]。彼女に言及する詩を6篇ほど書いている[91]エドワード・カルヴァートの木版画サミュエル・パーマー作「The Lonely Tower」。ジョン・ミルトンの詩集(1889年)の挿絵で、後期イェイツの主要なシンボル[92]


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