ウィリアム・バトラー・イェイツ
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イェイツはダブリンの高校に通い、父にギリシア語ラテン語を習い、シェイクスピアウォルター・スコットの作品を読んだが、その学力では大学進学は難しいと言われ、父と同様に画家を志してメトロポリタン美術学校に入学し、ここで他の芸術家や詩人と出会った[2][40]。執筆を開始し、ダブリン大学の同人誌に「彫像の島」(The Island of Statues)と題する牧歌劇の習作を連載している[41]

父とその画家仲間はラファエル前派の中心人物たちと関わりがあり、イェイツは1980年代からラファエル前派と関わりがあった[42]。彼は父の強い影響下にあり、15、16歳の頃、父からウィリアム・ブレイクを教わり、父のブレイク理解はラファエル前派的なものだった[43]。また、父にブレイクと共に「画家詩人」として勧められたラファエル前派のロセッティに「他の絵がかすむほど」の強い影響を受ける[42]ジョージ・ウィリアム・ラッセル

科学の時代に反発を感じていたイェイツは、この頃美術学校の同級生で幻視者(日本でいう霊感のある)のジョージ・ウィリアム・ラッセルから神秘思想や東洋の宗教について教わり、これに傾倒し、友人6人とオカルティズム研究会「ダブリン神秘哲学協会」を組織した[44][8][45][2]。1885年頃に神智学協会ヘレナ・P・ブラヴァツキーの紹介で、バラモン僧で神智学協会会員のモヒニ・チャタジー(英語版)[注 5]をダブリンに招き、友人たちを集めて神秘的なインド哲学の話を聞き、イェイツはこれによりインド哲学に接近し、インドを扱った詩を多く書いた[46][22]。また、詩人のキャサリン・タイナンに誘われて出席した交霊会で、頭蓋骨のヴィジョンに体が震えだし、壁に体をぶつけたりテーブルをひっくり返し、人々に彼こそが霊媒だと言われる体験もしている[47]

この頃遠縁の赤毛の少女ローラ・アームストロングに恋しており、これが初恋だった[48]。10代の頃はイギリス詩人のP・B・シェリーエドマンド・スペンサーに夢中になり、その技巧的なスタイルを模倣しており[49]、烈しく野性的だった初恋の少女を主題にジョン・キーツ風の恋愛詩を書いている[48]ジョン・オリアリー

1885年20歳時に、「妖精たちの歌」「さまざまな声」の2編が初めて「ダブリン大学レビュー」3月号に掲載された[44]。同年、フェニアン運動と呼ばれたアイルランド独立運動を主導したアイルランド共和国同盟(英語版)のカリスマ的指導者ジョン・オリアリー(英語版)と出会い、これをきっかけに愛国主義者という自覚を持つようになった。フィニアン運動の参加者はほとんどカトリックだったが、青年アイルランド党(英語版)のリーダートーマス・ディヴィス(英語版)による、出自に関わらずアイルランドを愛し国に仕える者はアイルランド人であり、虐げられたアイルランドの歴史を認識しアイルランドに住む多様な人々が互いに和解することでアイルランドが再び一つの国になるという考えに賛同していた[50]。オリアリーは、ディヴィスの詩に感銘を受けて愛国主義者となり、アイルランドの民族精神を表現できる文学者育成の必要を痛切に感じており、イェイツの才能と愛国心を見抜いてディヴィスら愛国者の詩を貸し与え、イェイツは作品のアイルランドへの思いに強く共感を覚え、自分が書くべきテーマを見出していった[50]。以前から興味があったアイルランドの歴史・伝説・民話を深く研究するようになり、これを題材とする物語を書き始めた[50][51]


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