Fragments
I
Locke sank into a swoon;
The Garden died;
God took the spinning-jenny
Out of his side.
U
Where got I that truth?
Out of a medium's mouth.
Out of nothing it came,
Out of the forest loam,
Out of dark night where lay
The crowns of Nineveh.
断片二つ
1
ロックは昏倒し
「楽園」は消滅した。
神はロックの脇腹から
紡績機を引きずり出した。
2
どこで私はあの真実を手に入れたのか。
巫女の口から
なにも無い処から、それは顕れた。
森の壌土から
ニネヴェの冠が眠る
漆黒の夜から、
それは顕れたのだ。1928年『塔』収録(小堀隆司 訳)[201]
彼は50歳から亡くなる75歳の間に最高傑作を生みしたが、文学史上前例のないことだった[2]。英文学者の松島正一は、「彼の詩人としての生涯は自己を否定しながら新たな自己を作り上げていく過程」であったと述べている[163]。後期の作品は、長くひたむきな詩作への研鑽、詩、戯曲、散文という幅広い形式での挑戦、精神的な成熟と、徐々に深めていった独自の神話体系からなる個人的な知恵から生まれた[2]。英文学者の高松雄一は後期の作品について、「対英抗争、内乱、大戦、老年など、現実の混乱、恐怖、不毛に対する仮借ない認識と、これらを克服して超越的体験にあずかろうとする願望が恐ろしい緊張をつくりだしている。」と評している[111]。 Three Movements この頃からイェイツは肉体的な衰え、特に性的能力の衰えを感じるようになり、彼は詩作と性愛が直結していたため、創作意欲が減退し、芸術的な危機に直面した[203]。1932年に生涯にわたる友で支援者だったオーガスタ・グレゴリーの死去という私生活の事件が重なり、2年ほど詩作ができないほどの落胆に陥る[204][205]。1932年にダブリンのリバーズデイルに居を構え、最後のアメリカ講演旅行に出かけた[199]。 1933年、オーエン・オダフィー
最晩年
Shakespearean fish swam the sea, far away from
land;
Romantic fish swam in nets coming to the hand;
What are all those fish that lie gasping on the strand?
三つの運動
シェイクスピアの魚ははるかな沖を
游いだ。
ロマン派の魚は手繰られる網の中で游いだ。
岸に放り出されて喘いでいるこの魚どもは何だ?1932年『おそらくは音楽のための言葉』収録(高松雄一 訳)[202]
老いの悩みを打ち明けた友人から、医師で優生学の最も熱心な主唱者の一人ノーマン・ヘア(英語版)が回春手術(シュタイナッハ(英語版)手術)について書いた『回春』という本を紹介され、これに鼓舞され、1934年に彼の回春手術を受ける[205]。この手術は精管を縛り男性ホルモン分泌を増加させようというもので、身体的効果はなかったと考えられているが、イェイツには心理的効果が絶大で、別人のように元気になり、晩年の豊穣多産な創作活動のきっかけになった[207]。後期は現実に目を転じたが、晩年はさらに作風が変化し、自己の内面を赤裸々に表現した[84]。
ノーマン・ヘアに術後の検査のためとして紹介された小説家・ジャーナリストでマルクス主義者で、「自由恋愛の使徒」の評判を持つ美女エセル・マニン(英語版)と性関係ふくめ親しく交際し、彼女はイェイツの良い聞き役となった[208][209][210]。また、詩人のドロシー・ウィスレー (ウェリントン侯爵夫人)(英語版)と親しくなり、彼女は世話好きで、その邸宅は亡きオーガスタ・グレゴリーのクール・パークに似ており、2人は師弟のような往復書簡を交わし、晩年まで交流を続けた[209][188]。