ウィリアム・バトラー・イェイツ
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とりわけ詩集『責任(英語版)』(Responsibility: Poems and a Play, 1914年)では、それまでの彼を決定づけていた茫漠とした郷愁と夢幻的な世界への哀惜、異界的な恍惚とした雰囲気は一掃され、詩の構成が引き締まり、硬質化し、イメージはより希薄になり、現実とその不完全さに対峙する新たな方向性が示されている[2]。『責任』では「ロマンティックなアイルランドは死んでしまった」という辛辣なフレーズをリフレインしてカトリック中産階級の物質主義を嘆き、ダブリン市民への辛辣な風刺や痛罵が繰り返されており、政治と社会へのするどい批評が前面に登場したと評される[41][144]。『責任』では、これまでの自己との決別が謳われ、神話を基にした自己の衣装を脱ぎ、「裸で歩く」ことが宣言されている[144]ゴードン・クレイグ

彼の詩的芸術としての演劇は、1910年にイギリスの演出家ゴードン・クレイグの刺激を受けた[145]。クレイグは俳優を動く操り人形とみなし、仮面を被らせ俳優の演技的創造性を拒絶し、スクリーンを組み合わせて光と陰のコントラストで舞台背景を作った[145]。感銘を受けたイェイツは1911年に彼の作品をアベイ座で上演したが、俳優や関係者からはかなり不評であった[145]

1910年、イギリスから年150ポンドの年金を受給するようになり、そのために評判を落とした[146][147]。また、1908年から愛人関係だったメイベル・ディッキンソンが、1910年に妊娠したとして結婚を求め、打ちのめされたイェイツは、霊媒のエリザベス・ラドクリフやオーガスタ・グレゴリーに相談し、家族や周囲を巻きこんだ騒動となり、ディッキンソンは妊娠は虚偽であったと認め彼の元を去った[48][148]。1911年、友人オリヴィア・シェイクスピアの遠戚のジョージー・ハイド・リーズ(英語版)と出会う(後に結婚)[146]

1912年にインドから来た詩人のラビンドラナート・タゴールと親しくなり、詩集『ギータンジャリ』の英訳を手伝い、新しい世界に目を開く経験となる[149]。この頃、頻繁に交霊会に参加していた[146]

1914年に、アメリカに講演旅行に出かける[147]。1915年、ナイトの称号授与を拒否[147]。数回の降霊会でイェイツに語り続けた霊レオ・アフリカヌスとの対話を書く[147]
能の影響を受けた演劇エズラ・パウンド

イェイツは、19世紀末頃から起こった自然主義写実主義という大きな流れが定着しつつあったヨーロッパの演劇に疑問を抱いており、作劇における新しい可能性を模索していた[150]

1909年に、イェイツを熱烈に尊敬する詩人のエズラ・パウンド(のちに重要なモダニスト詩人となる)が、オリヴィア・シェクスピアの娘の恋人になってイェイツの家に出入りするようになり、2人は1912-1914年にかけて共に過ごし、パウンドは目の悪い彼の口述筆記をするなど秘書役を務めた[8][151][152]

パウンドはジェイコブ・エプスタイン(英語版)やアンリ・ゴーディエ=ブルゼスカといったヴォーティシズム(渦巻派)の彫刻を紹介し、イェイツは彼らと関わるようになった[151]。また、パウンドはフェノロサによる能楽集の英訳編集に関わり、イェイツは1915年から1916年にパウンドとフェノロサの能の翻訳を読み、これを通じて日本のに深い関心を抱くこととなった[37][145]


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