ウィリアム・バトラー・イェイツ
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イェイツは晩年まで劇場の監督を務めた[2]
作風の変化

イェイツはニーチェとブレイクに通底するものを感じ、この頃(1902年か1903年)ニーチェの英訳を熟読して反キリスト教倫理観を学び、深く影響を受ける[130][131][45]。ニーチェとの出会いで、彼は後期ヴィクトリア朝詩人から20世紀詩人になったともいわれる[131]

プロポーズを断られた後も恋情を忘れられずにいたモード・ゴンが1903年に独立運動の闘士マクブライドと結婚し、カトリックへ改宗、出産。イェイツは直前まで伏せられていた結婚に大きな衝撃を受け、後に彼女と和解する1908年まで抒情詩はほとんど作っていない[132]

1907年にジョン・オリアリーが死去し、イェイツは彼の死でアイルランドの本当のナショナリズムはなくなったと感じた[133]。また同時期に、小作農を優先する新しい土地法(英語版)の施行でオーガスタ・グレゴリーが得ていた地代収入が激減し、イェイツが敬愛したクール・パークの維持が困難になり、イェイツは作品の中でそれを嘆いた[133]。イェイツたちアベイ座の演劇は批難を受けたが、それは彼らがアングロ・アイリッシュであることも大きかった[5]。アベイ座では、1907年に痛烈な批判を盛り込んだシングの「西の国のプレイボーイ」の筋書きに怒ったカトリック中産階級の観客達が暴動(プレイボーイ暴動)を起こし[注 13]、アベイ座は警察に出動を要請し、警官が暴れる人々を連行[134]。アイルランドでは警察は支配者の手先であり、警察を入れたアベイ座に対する批判が高まり、翌日には暴動はさらに激化、イェイツの研究者の杉山寿美子は、急進的ナショナリズム組織のシン・フェイン党が暴動に組織的に関与したことを指摘している[134]。しかし、アベイ座の経営陣と役者たちの強固な意志と勇気に抗議者たちは勢いを失っていき、1週間弱で暴動は終焉した[134]。アベイ座は暴動後に一週間の公開討論会を開き、多くのナショナリストたちが登壇、シングの擁護者はイェイツの父等わずかだったが、イェイツはこの討論会と講演旅行で弁舌を振るい、闘士としての本領を発揮した[134]。暴動の顛末は世界中に発信されて、一躍シングとアベイ座の名声を高めたが、アベイ座はダブリン市民からボイコットされ、観客はほとんどいなくなり、オーガスタ・グレゴリーの長年の慈善活動にも邪魔が入った[134]

イェイツはこの暴動に、オリアリーが率いた愛国精神の一派の消滅を見て、政治と芸術の間の線引きを強めた[135]。また、離婚手続きを行ったモード・ゴンを観客が罵倒する等の事件が立て続けに起こり、上演されたイェイツの作品も高尚すぎて理解できないと批判される等、劇場経営に参加していた期間にカトリックの愛国者たちへのいら立ちを募らせていき、かつて親しく交流した愛国主義者たちに作中で容赦ない批判を行うようになっていった[133]。高松雄一は「彼は己のヴィジョンと現実の落差を思い知らされた。アイルランドの民衆そのものにではなくとも、少なくともダブリンの中産市民階級には見切りをつけた。」と述べている[136]。ダブリンの市民たちに裏切られたと感じ、彼らを軽蔑し、憎しみさえ感じ、「芸術家」対「市民」という構図で大衆の無理解を詰った[123]

1907年、高齢の父がニューヨークに旅行に出かけ、ここで暮らすようになり、以降アイルランドに戻ることはなかった[137]

アニー・ホーニマンはアベイ座に見切りをつけ、イギリスに劇場を作ることを決め、イェイツにそこのヘッドマネージャーを打診した[138]。イェイツは手紙で、それは国籍を変えるようなことであり、自分はイングランドの聴衆を理解していないため、成功しないだろうと応じ、自分の民族のために書き続けると語った[138]。ホーニマンは1910年までアベイ座への年額800ポンドの財政援助を契約しており、それまでに採算を軌道に乗せることが喫緊の課題になった[138]。アベイ座の新しい舞台監督に就任していたイングランド人のベン・イーデン・ペインが、劇団員のイングランド人に対する敵意と、彼らのキャパシティはイェイツの詩劇への適性を欠き、不可能な仕事を続けることは時間の無駄だとして、わずか6か月で辞任した[138]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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