ウィリアム・バトラー・イェイツ
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イェイツは民間の言い伝えの採集を通して、それが古代の祭祀やキリスト教による破壊を免れた異教の信仰に対する自身の思いと重なることに気づき、それを厳格で格調高い文体で表現すれば、本物の詩が生まれ、自身のアイデンティティに向かって進むことができると考えたが、その試みはうまくいっていなかった[2]。オーガスタ・グレゴリーはすでに昔話やアイルランド西部の言い伝えを集めており、彼女との出会いでイェイツの試みはようやく進展し始めた[2]。オーガスタ・グレゴリーはイェイツの詩才を高く評価し、以後生涯にわたってイェイツの重要な後援者であり、「母、友人、姉妹であり兄弟、彼女のいない世界を考えることはできない ― 彼女は私の揺れ動く思想に不動の気品を与えてくれた。〔…〕友情はわが家、それが全て。」というほど重要な、敬愛する親友となった[53][2][108]。1882年の初めての訪問以降、毎年夏季に彼女の邸宅(ビッグハウス(英語版))クール・パーク(英語版)に滞在して創作に専念し、規則正しいゆたかな生活と、いくつもの湖沼をかかえる広大な地所の景観は、イェイツの詩作の重要な主題となってゆく[69]。イェイツ以外にもここを訪問するアングロ・アイリッシュの文人や芸術家、政治家は多く、イェイツにとってはアイルランドの優れた文化を担い、受け継ぐ聖地であった[109]

He Wishes For The Cloths Of Heaven
Had I the heavens' embroidered cloths,
Enwrought with golden and silver light,
The blue and the dim and the dark cloths
Of night and light and the half-light,
I would spread the cloths under your feet:
But I, being poor, have only my dreams;
I have spread my dreams under your feet;
Tread softly because you tread on my dreams.

彼、天の布を望む
私に刺繍を挿した天の布、
金と銀の光で織った、
夜(ナイト)と光(ライト)と薄明り(ハーフライト)、
ブルーとほの白、黒の布があったなら、
私はその布を貴女の足元に敷きましょう、
けれど、私は貧しく、夢だけしかありません。
私は私の夢を貴女の足元に敷きました、
そっと踏んで下さい、貴女は私の夢を踏んでいるのです。『葦間の風』収録(杉山寿美子 訳)[110]

この時期にイェイツは詩集を数冊出版し、特に最初の詩集『詩集』(Poems, 1895年)と『葦間(あしま)の風』(The Wind among the Reeds, 1899年)は、夢幻的な雰囲気とアイルランドの民話や伝説を用いた初期の詩の典型となっている[2]。『葦間の風』は、初期代表作のひとつとみなされており、イェイツの文名を高めた妖精伝説の要素と、報われない恋の憂鬱や神秘主義が混然となった詩集で、妖精の「風」を通してアイルランドの革命が前景化されている[77][8][82]。英文学者の高松雄一は、本作で「現実の社会に背を向け、神話と魔術と夢の領域に詩の主題を求める神秘主義的で芸術至上主義的な傾向」が一つの頂点に達したと評している[111]。また「黒豚渓谷」のような終末論的な詩も含まれ、モード・ゴンの革命思想の影響がうかがえる[77]。ほかに、薔薇十字団などの神秘主義を論じ薔薇が錬金術に連結された短編集『秘儀の薔薇』(The Secret Rose, 1897年)[77][45]や、批評集『善と悪の観念』(Ideas of Good and Evil, 1903年)などを相次いで発表している。

1894年にイェイツがノートでダイアナ・バーノンと呼んだ女性と家庭を持とうとしたが、モード・ゴンへの思いを断つことができず、失敗している[61]

1898年に、モード・ゴンから、実はフランス人の愛人であること、2人の子どもを生んでおり、最初の子はなくなっているという私生活の秘密を告げられ、イェイツはこれを結婚を拒む盾と感じて大きなショックを受け、再度求婚したが、性に対する恐れを理由に拒否され、イェイツは諦め、結局二人は、昔彼女が夢で見たという「前世は二人は兄と妹だった」というオカルト的な「霊的結婚」の関係性に落着した[112]。この騒動の衝撃で、19か月にわたって詩作が中断された[112]。「神秘の薔薇」としてのモードへの崇拝の幻想から覚め、彼の詩から象徴としての「薔薇」はなくなった[77]

1900年、母スーザンが失意のうちに死去し、イェイツ家はまたダブリンに移住した[113][18]。この頃から優生学に関わるようになる[114]


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