ウィリアム・バトラー・イェイツ
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その空白を文学、芸術、詩、戯曲、伝説によって埋めようと、1892年にはアイルランド出身の詩人たちと「アイルランド文芸協会」(The Irish Literary Society of London)を設立、ダブリンにも文芸団体を発足させて民族文学の発掘と普及に力を入れ始めた[64][41][2]。アイルランド文芸復興は、カトリック勢力が台頭し、独立を目指す民族主義運動が広がる中、少数派となったアングロ・アイリッシュたちが、アイルランド人としてのアイデンティティ確立を模索する試みだった[16]。イェイツはケルトの民間伝承を採話し、批評等を加え、1893年に散文集『ケルトの薄明』(The Celtic Twilight)を出版[87][97]
オカルティスムへの傾倒ブレイクの予言的な幻想詩より、原初の巨人が分かれて生じた4人のゾアの関係図マグレガー・メイザース

このころ創作面では、イェイツの作品のうち最も広く知られる詩の一つ「湖の島イニスフリー(英語版)」(The Lake Isle Of Innisfree)を含む詩集『キャスリーン伯爵夫人および諸伝説と抒情詩(英語版)』(The Countess Kathleen and Various Legends and Lyrics, 1892年)などを発表するほか、オカルティズムへの傾倒を深め、1887年に当時のロンドンで人気を集めていた「神智学協会」のヘレナ・P・ブラヴァツキーの元に赴いて、彼女に人間性の豊かさを感じ、協力会員になった[98]。イェイツはオカルトに惹かれたが、同時に懐疑の目を向け、超自然界・超自然現象の証を求めて実験に固執したため、耐えかねたブラヴァツキーから退会勧告を受け、1890年に退会した[99]。同年、ケルトを自称するマグレガー・メイザースが中心となって作り上げたカバラ錬金術占星術タロット等から成る体系に基づく「黄金の夜明け団」に入団[100]。メイザースは会員に魔術の実験やデモンストレーションの機会を多く与え、イェイツは儀式での体験に魅了され、研究に没頭した[101]。アニー・ホー二マン(英語版)がメイザースのパトロンであり、イェイツに続いて女優・演出家のフローレンス・ファー、モード・ゴン[注 10]、トッドハンター、スライゴの叔父ジョージ・ポレックスフェンが入会している[103]。このオカルト教団は型破りな女性会員の比率が高く、「ニュー・ウーマン」の彼女たちはイェイツの芸術に影響を与えた[103]。1892年にメイザースがパリに移ると、彼とロンドンの会員の関係は悪化し、メイザースは教団の支配権回復のために悪名高いアレイスター・クロウリーを送り込み、イェイツはクロウリーに対抗するために教団運営に関わるようになり、教団本部に無断侵入しようとしたクロウリーを告訴し勝訴[104]。メイザースはロンドンの教団から追放され、イェイツが深く影響を受けた彼との関係は終了した[104]。教団内のいざこざは続き、イェイツと親しいホーニマンとファーが教団の運営をめぐって対立、彼はホーニマンについたが、多数派のファーのグループが実質的に勝利し、イェイツは教団運営から手を引いた[104]。教団はさらに怪しげなアメリカ人オカルト詐欺師夫婦によるスキャンダルに巻き込まれて評判は地に落ち、名称を変更し、二派に分裂[104]。イェイツはその一つに1920年頃まで所属していた[104]

彼はウィリアム・ブレイクから強い影響を受けており、この頃エドウィン・J・エリスと『ウィリアム・ブレイク著作集(英語版)』(The Works of William Blake: Poetic, Symbolic and Critical, 1893年)を編纂、神秘家のスウェーデンボリヤコブ・ベーメ[注 11]を参考にブレイクを読み解き、それまで注目されていなかった「prophetic books」と呼ばれる一連の予言的な幻想詩(ウィリアム・ブレイクの予言書(英語版))を積極的に評価し、本書はブレイク研究史上も重要なものとなった[106][45]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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