ウィリアム・バトラー・イェイツ
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英文学者の長谷川年光は、エッセイ「スウェーデンボルグと霊媒と荒地[注 25]」等からは、彼が深い関心を持って追及していた新プラトン主義から、交霊会などオカルティズムと呼ばれる神秘主義的思想、アイルランドの神話や民話は、共通する基礎構造に支えられたものであるという、当時のイェイツの思想的・宗教的命題が明らかであると述べている[243]。それは、世界は「現実の自然界と超自然界、現世と他界、俗と聖、眼に見える世界と見えない世界、といったように二元的世界構造をもちながらも、さらにこれらの二つの世界が相互に作用しあい、浸透しあっているようないわば二にして一、一にして二なる世界構造」に支えられたものであり、このような次元を異にする二つの世界の相互浸透作用の確証が、特に夢の中に、またトランス状態、脱魂状態、憑霊といったようなシャーマニズム的な心霊現象の中に見出すことができると考えた[243]。長谷川年光は、劇作家イェイツの課題は、「このような世界構造に支えられた人間の生の世界の多層性」をいかにして劇化するか、ということだったと述べている[243]

イェイツは黄金の夜明け団でのオカルト実験・儀式の体験を通じて、「イメージは意識や潜在意識よりも一層深い源から湧き上がるものであること、言葉やシンボルはそれ以外では達し得ないリアリティを喚起する力を秘めていること」を学んでおり、イェイツは、自身の象徴的言語が、フランスの象徴主義経由というより、神秘思想家やブレイク、黄金の夜明け団の「ミスティカル・シンボリズム」から学んだものであると明言している[244]

アイルランド文学研究者の松田誠思は、イェイツが神智学、ヘルメス哲学錬金術、魔術など、近代の哲学・科学に対し相補的な意味を持つ古代・中世の 〈知〉の探求方法の研究と実践に生涯情熱を傾けた理由として、彼は「ルネッサンス以後、特に17世紀以降ヨーロッパの近代哲学・科学の主流となった認識論パラダイム、すなわち認識の主体と認識の対象を厳密に区別することによって、〈知〉の客観性と確実性を保証しようとする立場にたいして、終始批判的」であり、「〈知〉の客観性と有用性を偏重する近代的認識論が、この世界における 〈個〉と外界の事物との有機的関係、さらには人間のみならずすべての事物の相互関係に含まれるユニークな価値の認識を妨げ、〈生〉の自己疎外を引き起こしていることを、詩人としての出発当初から一貫して批判していた。」と指摘し、「古代・中世人が自然と人間の関係について、また宇宙における人間の位置について蓄えてきた英知に学ぶ、いわば人間的知の再発見と深化の試みであった。」と述べている[245]。イェイツは熱心にオカルティズム、神秘哲学を探求し、アイルランドの田舎の人々の間に土俗の信仰を探し、交霊会や自動筆記の会といったいかがわしい場所にも足しげく出入りしており、そんな彼には嘲笑の目が向けられ続けた[228]
死者が見る夢の回帰

後期イェイツは戯曲「骨の夢」等で、繰り返し「死者が見る夢の回帰」を描いた[246]。『幻想録』でも言及されるこの「夢見回想」は、「罪を犯した者は死後亡霊となって生前犯した罪を繰り返し生き直すという呪いを受ける」というもので、彼はこれを文化を超えた根源的な想念と捉えていた[246]。「夢見回想」のインスピレーションの源泉は、16世紀ルネサンス期の魔術師アグリッパと日本の能であり、作品においては夢幻能の構造と結びつけられている[184][246]

「エマーのただ一度の嫉妬」(The Only Jealousy of Emer, 1919年刊)から「クーフリンの死」(The Death of Cuchulain, 1939年刊)まで、ほぼ同様の構成を踏襲した作品を発表し続けた[154]
仮面、ペルソナ

演劇運動では苦い思いも少なくなかったが、その体験は無駄になることはなく、民衆に語りかけるための音楽的な雄弁術(彼はオラトリーと呼んだ)、観客に自分のヴィジョンを伝えるための戯曲・演出での実際的な工夫の経験が詩に生かされ、瞑想的で繊細優美な表現から、直接的で劇的な詩に変化した[247]。詩の中で、詩人自身が一人の演技者となり、登場人物(ペルソナ)となって語り、言葉によって自分の思いを演じるという変化には、演劇の影響が見られる[248]、『緑の兜その他の詩』(1910年)収録の「仮面」(Mask)では、後期の重要な象徴となる仮面が初めて登場している[249]。こうした作風は『責任』(1914年)あたりから顕著になっており、これ以降の詩では、語り手が主役を務めることが多くなっている[248]
内なる口論としての詩

1917年5月に、「われわれは他人と口論してレトリックをつくり、自分と口論して詩をつくる。レトリックを操る者たちは、かつて説得した、あるいはこれから説得するであろう大衆を思い起こして、音声に自信をみなぎらせる。われわれは不安のただなかで歌う」と作中で詩を定義しており、「オラトリー」からさらに、「自分との口論」としての詩へと語法が変化していった[250]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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