ウィリアム・バトラー・イェイツ
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ウィリアム・バトラー・イェイツ

生誕 (1865-06-13) 1865年6月13日
イギリス
アイルランドダブリン県
死没1939年1月28日(1939-01-28)(73歳)
フランス共和国ロクブリュヌ=カップ=マルタン
国籍 アイルランド
主な受賞歴ノーベル文学賞(1923年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1923年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:芸術性が高く精妙な詩歌によって国民全体の精神を表現した貢献に対して

ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats、1865年6月13日 - 1939年1月28日)は、アイルランド詩人劇作家・思想家[1]散文、批評も書き、ジャーナリスト、オカルティストであり、独自の思想を展開した[2]現代詩の世界に新境地を切り拓き、20世紀の英語文学、現代詩において最も重要な詩人の一人であり、「最も偉大な詩人」という評価も定着している[3][2][4]。生涯の多くをイギリスを拠点に活動した[5]

ケルト復興運動(英語版)の立役者の一人であり、幼少の頃から親しんだアイルランドの妖精譚などを題材とする抒情詩で注目され、民俗学の方面でも優れた業績を残した[6]。アイルランド独自の演劇はイェイツとオーガスタ・グレゴリーの活動に始まり、彼は戯曲を書き、仲間と劇場を設立し、マネージャーとして運営して、アイルランド演劇(英語版)運動を主導し、アイルランド文芸復興(英語版)の担い手となった[7][8][2][4]

1922年から6年間、アイルランド上院議員も務めた[9]1923年にはノーベル文学賞を受賞[10]

「夢見るケルト」と呼ばれ、「天上的」な調べを奏でる抒情詩人であり、アイルランド社会の無知・蒙昧・狂信に挑み続けた闘士であり、政治家としての職務に勤しみながら、瞑想的な詩作の探求を深めるといった、多くの顔を持ち、ひどくアクロバティックな忙しい日々を過ごし、常人の理解を超える多重的な人生を生きた[11]

詩人としての評価は、彼の死後急速に確立した[12]。英詩としては、現実と対峙し唯美主義を脱した後期の詩集『塔』(1928年)、『螺旋階段』(1933年)等が最も高く評価されており[13][14]、日本ではの影響を受けて執筆した戯曲「鷹の井戸」(1916年初演)や、初期の抒情詩「湖の島イニスフリー」などが広く知られている[3]
来歴
アイルランドの宗教・社会構造と家族1911年撮影

イェイツ家は、6代前にイングランドのヨークシャー地方から移住した、いわゆるニュー・イングリッシュ?[注 1]で、曾祖父と祖父はアイルランドのイギリス国教会系のプロテスタントの教区牧師だった[15]。曾祖父の母はオールド・イングリッシュ[注 2]の名家でキルデア県の貴族バトラー家[注 3]の血を引いており、イェイツ家はバトラー家との婚姻関係を誇りに思い、イェイツのミドルネームはこれにちなんでいる[15][16]。貴族の血を引くイェイツ家もキルデア県にわずかに土地を持ち、不在地主(英語版)として地代を得ていた[17]。イェイツ家の家風は厳格で、イェイツは「何か居心地の悪い重苦しいものを感じた」と語っている[18]

イェイツ家は、アングロサクソンプロテスタントであるアングロ・アイリッシュ(英語版)で、ゲーリック・アイリッシュと言われる土着のケルト系ローマ・カトリック(アイリッシュ・カトリック(英語版))の人々からは区別される存在だった[19]。彼の幼年時代は、プロテスタント・アセンダンシー(英語版)[注 4](アイルランド征服に従って移住したプロテスタントの子孫で、アイルランドにおける排他的・優越的な地主の支配者層(英語版))と、カトリックの小作人、という支配者・被支配者の構造がはっきりとあった[17]。「アングロ・アイリッシュのもつ孤独」は、幼年時代のイェイツのジレンマの核となった[20][17]


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