ウィリアム・バトラー・イェイツ
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来歴
アイルランドの宗教・社会構造と家族1911年撮影

イェイツ家は、6代前にイングランドのヨークシャー地方から移住した、いわゆるニュー・イングリッシュ?[注 1]で、曾祖父と祖父はアイルランドのイギリス国教会系のプロテスタントの教区牧師だった[12]。曾祖父の母はオールド・イングリッシュ[注 2]の名家でキルデア県の貴族バトラー家[注 3]の血を引いており、イェイツ家はバトラー家との婚姻関係を誇りに思い、イェイツのミドルネームはこれにちなんでいる[12][13]。貴族の血を引くイェイツ家もキルデア県にわずかに土地を持ち、不在地主(英語版)として地代を得ていた[14]。イェイツ家の家風は厳格で、イェイツは「何か居心地の悪い重苦しいものを感じた」と語っている[15]

イェイツ家は、アングロサクソンプロテスタントであるアングロ・アイリッシュ(英語版)で、ゲーリック・アイリッシュと言われる土着のケルト系ローマ・カトリック(アイリッシュ・カトリック(英語版))の人々からは区別される存在だった[16]。彼の幼年時代は、プロテスタント・アセンダンシー(英語版)[注 4](アイルランド征服に従って移住したプロテスタントの子孫で、アイルランドにおける排他的・優越的な地主の支配者層(英語版))と、カトリックの小作人、という支配者・被支配者の構造がはっきりとあった[14]。「アングロ・アイリッシュのもつ孤独」は、幼年時代のイェイツのジレンマの核となった[17][14]。多数派のカトリックとは信仰を共有できず、プロテスタントに対しては物質的な成功への関心に反発を感じた[2]ジョン・バトラー・イェイツ

父ジョン・バトラー・イェイツ(英語版)は、父や祖父と同じように聖職に就くのを避けて、法律を学んで弁護士資格を取り、法律家として将来を嘱望されていたが、結婚後に子どもが生まれると、画家になる決意を固め、後に肖像画家になった[13][18]。英文学者の野中涼は、「経済的な配慮なしに、自分の本当にしたいことだけをする、と強く決心した人だったそうである。」と述べている[18]。母スーザン・イェイツ(旧姓ポレックスフェン)はアイルランド西部スライゴの裕福な商人の家の娘で、美しく感受性豊かで、この地方の民間伝承に深く親しんでいた[15][19]


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