ビル・ドノバンはニューヨーク州バッファローにて第一世代のアイルランド系移民の息子として生を受けた。母アンナ・レティティア・"ティッシュ"・レノン(Anna Letitia "Tish" Lennon)はアルスター出身で、父ティモシー・P・ドノバン(Timothy P. Donovan)はコーク県出身だった。祖父ティモシー・オドノバン・シニア(Timothy O'Donovan (Sr.))は教区司祭だった叔父の元、スキバリーンに暮らした。またそこでウィリアムの祖母に当たるメアリー・マホニー(Mary Mahoney)と出会っている。メアリーは地主の娘だった為、結婚にティモシー側の承認は不要だったという。その後、彼らはカナダを経てニューヨークに移る。息子ティモシー・ジュニアは政治家を志して活動したものの、その成果は微々たるものであった。
ビル・ドノバンはセント・ジョセフ・カレッジエイト・インスティチュート
(英語版)を経てナイアガラ大学(英語版)に入学し、後にはコロンビア大学のフットボールチームで活躍したという。この頃に付けられた愛称「ワイルド・ビル」(Wild Bill)は、その後も彼の愛称として知られていく事になる[1][4]。1905年にコロンビア大学を卒業し、同時期にファイ・カッパ・サイ[1][5]やマルタ騎士団の構成員となる[6]。コロンビア大学の法科大学院であるコロンビア・ロー・スクールを卒業したドノバンは、まもなくウォール街に影響力を持つ弁護士の1人となる。
1912年、ドノバンはニューヨーク州民兵(英語版)(New York State Militia)にて騎兵隊を組織し、自らその指揮官となる[7]。この部隊は連邦軍がパンチョ・ビリャ遠征(英語版)に出動していた影響で、1916年に動員令を受けてアメリカ=メキシコ国境の警備に回されている[7]。
第一次世界大戦フランス戦線のドノバン少佐(1918年)
第一次世界大戦中、少佐となったドノバンは第42歩兵師団(英語版)第165連隊(英語版)第1大隊の大隊長を務めていた。同連隊はFighting 69thとして知られる第69ニューヨーク義勇兵連隊と同一の部隊であり、165はそれと別に連邦軍にて与えられている部隊番号である。フランス戦線ではコロンビア大の同窓生である詩人ジョイス・キルマー(英語版)がドノバンの副官を務めていたという。1918年10月14日から15日にかけて、フランスのセント・ジョルジュ付近で発生した戦闘における功績から、ドノバンは名誉勲章を受章した。終戦までに大佐となり、2つの殊勲十字章と2つの名誉戦傷章を受章している。
戦間期司法省職員時代のドノバン(1924年)
1922年から1924年にかけて、彼はニューヨーク州西部地区の連邦検事を務めており、積極的な禁酒法違反の取締で知られるようになる。1924年、大統領カルビン・クーリッジは司法長官ハリー・M・ドアティ(英語版)の代理補佐官としてドノバンを司法省独禁法取締部門に登用した[7]。
1922年、共和党員としてニューヨーク副知事選に出馬するも落選し、1932年の知事選でもやはり落選している[8]。1932年の選挙ではジャーナリストのジェームズ・J・モンタージュが個人顧問たる選挙参謀として選挙運動の支援に当たっている[9]。また、1924年から1928年の間、ハーバート・フーヴァーに庇護され、ボヘミアンクラブに連れて行かれるほどの厚遇を受けた。 第二次世界大戦前、ドノバンはヨーロッパ各国を巡ってイタリアのベニート・ムッソリーニなど多くの要人との会談を行った。
第二次世界大戦