ウィリアム・テル
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謀反の制圧の後に農民たちは、テルの伝説につながる、ルツェルン村長のUlrich Dullikerの殺害を始めとする暴君の暗殺に賛成した[13]

DahindenとUnternahrerは、Zempの代わりにHans Stadelmannを加えて、テルの役割に戻った。彼らは、Dullikerを襲い、ルツェルン議会のメンバーCaspar Studerを殺害を行うために待ち伏せをした。古いスイス同盟においては例外的な行為である暗殺の試みは広く認められ、農民たちの中では歓迎されたが、謀反を再燃させるほどの影響は産まなかった[13]

ただし直接には政治的影響を産まなかったとしても、ルツェルン政府を暴君(ハプスブルグとゲスラー)に位置付け、自由の戦士(テル)に農民の人気を与える象徴としての価値は見いだせる。その後3人のテルは、妨害にも遭わず衣装を着けて大衆の中に入っていった。DahindenとUnternahrerは1653年10月にアルフォンス・フォン・ソネンバーグ大佐配下のルツェルン兵士に殺害された[13]

3人のテルは、1672年にJohann Caspar Weissenbachによる喜劇に登場する。1816年にはグリム兄弟『ドイツ伝説集(no.298)』で、眠れるヒーロー版の3人のテルの伝説が出版された。これはフェリシア・ヘマンズの詩「The Cavern of the Three Tells」(1824年)の題材にもなっている。
現代における受容

19世紀頃から第二次世界大戦にかけての時代には、テルはスイスとヨーロッパでは圧政への反抗の象徴として認知されていた。
19世紀まで

フランスのAntoine-Marin Lemierreは、1766年と1786年にテルを扱った劇を書いている。この成功により、テルをフランス革命とともに圧政に立ち向かう戦士という共通認識が作られた。フランス革命におけるテルへの関心は、スイスでにもヘルヴェティア共和国成立とともに反映され、共和国の印章のデザインにも使われた。フランス海軍ではトナン級戦列艦に「ウィリアム・テル」と命名したが、これは1800年にイギリス海軍に拿捕されている。テルを型どったヘルヴェティア共和国の紋章

メキシコの大統領で国民的英雄でもあるベニート・フアレスは、フリーメイソンに参加参加する際に、スペイン版ウィリアム・テルである「Guillermo Tell」の扮装を選んだが、これは彼が自由と抵抗の象徴であるテルの物語と人物像が好きなためだった[14][15]

チューディ「スイス年代記」は19世紀でも歴史資料として使われ続け、チューディによる伝説は、ミュラー『スイス連邦史』(1780年)とも合わせて、フリードリヒ・シラーの戯曲「ウィリアム・テル」(1804年)のモデルにもなった[9]

ゲーテは1775-1795年にスイスを旅行してテルの伝説を知った。彼はチューディの年代記の写しを入手し、テルについての劇を書こうとしたが、そのアイデアを友人のシラーに譲り、シラーの執筆した「ウィリアム・テル」は1804年3月17日にワイマールで上演された。シラーのテルは、18世紀末の政治的動き、特にフランス革命アメリカ合衆国の独立に大きく影響されている。シラーの劇はスイスのインターラーケンでは、1912-14年、1931-39年、そして1947年からは毎年上演されている。

ジョアキーノ・ロッシーニは、シラーの劇を元にしてオペラ『ウィリアム・テル』(1829年)を作曲[16]。このウィリアム・テル序曲はロッシーニの最も知られている曲の一つであり、20世紀になって映画やTVドラマの『ローン・レンジャー』や西部劇のテーマとしても使われた。長尺で技巧的に高度なため上演は容易ではなく、一時期まではイタリア語改訂版『グリエルモ・テル』として上演される方が多かったが、1990年代よりフランス語版上演が主流。日本での初演は1983年10月、藤沢市民オペラが行っている[17]テルの図柄のトランプ

1836年頃には、ハンガリーペシュトで、トランプの絵柄として使われ始めた。それはハプスブルク家の支配の中で、シラーの劇に触発されて作られ、1848年革命を経てオーストリア帝国においてポピュラーになっていった。絵札に使われる人物や場面は、オペラ『ウィリアム・テル』から取られたとみられ、エースのテルの図は1835年頃にハンガリーでデザインされた。これらのカードは、ドイツ発のカードとしては現在でも最もよく知られている。Ober(クィーン)とUnters(ジャック)には、劇に登場するゲスラー、ウォルター・フュルスト、Rudolf Harras、テルなどが使われる[18]

1858年にスイスとドイツからの移民が、アメリカインディアナ州ペリー郡オハイオ川沿いにまちづくりを計画した。それは当初はヘルヴェティアの再現を目論んでいたが、ほどなく「テル・シティ」と名付けられた。街はその後木製家具などの製造で有名となる。アルトドルフのものを元にして1974年に造られたテルと息子の銅像をはじめ、テルと、その象徴である矢に貫かれたリンゴが街中にある。テル・シティ高校では紋章やロゴにこれらのシンボルを使い、またスポーツチームは射手(Marksmen)と呼ばれる。もちろん試合では、楽団がウィリアム・テル序曲を演奏する。市の100周年となる1958年以降の毎年8月に、スイス・ドイツ系遺産を再現するシュヴァイツァー・フェストが、テルの像のあるメインストリートを中心に開催されている。

彫刻家リチャード・キスリングは1895年にアルトドルフでテルの記念碑を作成した。キスリングは、テルをたくましい体と手足を持った、農民でまた山の男として描いた。テルの手は息子ウォルターの肩に載せられている。これはヘルヴェティア共和国の紋章に使われた、剣をベルトに差し、羽根つき帽子を被ったドイツ傭兵(ランツクネヒト)のような姿で、リンゴを持った息子を抱き上げようとしている絵柄とは対照的である。ホドラー画「ウィリアム・テル」(1897)


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