ウィリアム・ジェームズ
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1864年(22歳)ハーバードにおける研究は、化学から比較解剖学および生理学に移り、ハーバード大学医学大学院に転じた。

1865年博物学者ジャン・ルイ・ルドルフ・アガシーブラジル探検(アマゾン川流域の探検、体調不良だったアガシーがリラックスのためにフィールドに戻り、ブラジルの魚の研究を再開する目的)に参加した。

重度の船酔いと軽度の天然痘の発作に苦しんだため、8ヶ月後に旅行を中止した。彼の研究は1867年4月に病気のために再び中断された。

この体験は採取とか分類とかその仕事の不向きさを知ることによってかえって自己の思索家的な素質を発見し、哲学を研究しようという気持ちを抱かせるにいたった。[3]一方、そこで生物学に興味を持つようになり、ハーバード大学医学を学び解剖の技術を身につける気持ちを抱く。

1865年(23歳)のとき自分が思索的生活に向いていることを感じ哲学に、また医学部の学業を中断してヨーロッパ滞在しているときには心理学に興味をもつ。[6]

1866年秋からドイツへ。生理学の勉強を兼ねて療養のため。不眠、消化不良、眼疾、背中の痛み、憂鬱などになやまされており、彼は外遊という環境の変化によってそれらの病の治療を期待したのである。1868年11月帰国。心理学への関心が高まり、さらに哲学への関心が頭をもたげたのであった。それはドイツでヘルムホルツヴントの業績に触れ「心理学が一つの科学になりつつある」ことを感じる。[3]

1869年に医学の学位を取得した。大学卒業後、1869年から72年までの4年にわたる病弱と憂鬱症の時期がこの関心を決定的なものにし、ここにジェイムズは心理学者、哲学者としての道を歩みはじめる。[3]

1870年4月30日日記、ルヌーヴィエ(Charles Renouvier)の自由意志説が光明を与える。「私の最初の自由意志の行為は、自由意志を信ずることであるであろう」。ジェームズの哲学の帰朝、哲学は彼が生きて行くための信仰ないし信念であった。[3]これは重要な影響でジェームズは「しかし、1870年代に多元主義の見事な提唱によって私に与えた決定的な印象のために、私は自分が育った一元論的迷信から自由になることは決してなかったかもしれない」と書いている。ちなみに、ルヌーヴィエは自らを「歴史のスヴェーデンボリ」と称している。

1872年(30歳)のとき、1869年からハーバード大学の総長となったチャールズ・エリオットから生理学の講師に任命される。教壇生活によってジェームズは憂うつ症から解放され、心身ともに救われることになる。[6]

1875年には、「生理学と心理学の関係」という題で講義を始め、アメリカでは初めて心理学の実験所を設立、米国の心理学の祖となる。同年にドイツで、ライプツィヒ大学の哲学教授となり、実験心理学を打ち立てたのが、ヴィルヘルム・ヴントである。1878年には、スタンレー・ホールにアメリカで最初の心理学の博士号を授与した。ジェームズはやがて、スペンサーの哲学(社会進化論)やシャルル・ルヌーヴィエの思想に興味を抱き、生理学だけでは人間の精神状態を説くのに十分でないと疑問を抱きはじめ、哲学の道を歩むことになる。

1876年には生理学の助教授となり、「生理学的心理学」を開講し、教科書にはスペンサーの『心理学原理』を用いた。[6]

 1878年、ホルト出版社のヘンリー・ホルトが、アメリカ人の学者による、進化論を共通の基盤とする「アメリカ科学叢書」の出版を企画とし、その1冊として『心理学原理』の執筆を依頼。[6]ただジェームズが想定以上の膨大な量で執筆し長引き1890年に出版。

1880年にはハーバード大学で心理学の研究と並行して哲学の助教授に、1885年に教授になる。ジョージ・ハーバート・ミードも彼の講義を受けたひとりである。

1890年には、彼の記念碑的研究書である『心理学原理』が刊行された。

 心理学の目的は、意識状態(心的状態)そのものを記述し説明することである。そして説明するために、意識状態の原因、条件、結果などに関して、意識状態と内外の関係を支配する法則に発展しようとした。意識状態は外界の認識と動作との間に介在するものとして位置づけられており、すべての心の状態は単なる考えや感じでさえも、その結果的においては運動的であると考えれている。

 ジェームズ心理学は、心的活動は常に脳の活動の関数であるとする生理心理学的作業仮説の上に立っている。

 外界の認識と動作に関していえば、そこでは共に合理性と選択性が強調され、意識の帰納を重んずる進化論的立場が濃厚である。この混沌とした世界の中でわれわれが方向決定をするのに必要な能力のみでなく、情動や本能も生存を助ける形で準備されており、この順応は「心と外界が相たずさえて進化した」ことの結果であるという。また「われわれの様々な感じ方、考え方は、それがわれわれの外的世界に対する藩王を形成するのに役立つから現在のようなものになった」と心的生活の有目的性を唱えている。外界の認識に際して意識ははっきりとした選択性を発揮し、同時に存在する混沌たる全体の中からその一部を選び、他の大部分を無視するし、動作の遂行にあたっても目的追求性と手段の選択性が顕著である。逆に言えば動作が心的と認めれる基準は、その目的追求性と選択制にあり、同じ目的を達成するために異なる手段を柔軟に用いるところに心の表現を見ることができるのである。また習慣的動作についても、習慣はわれわれの運動を単純化し、これを正確にし、かつ疲労を減ずるという実用的効果について述べている。内省(内観)を用いているが、それは構成主義者のように要素を見だすことを前提とした内省ではなく、あるがままを見る自然な自己観察である。

 この方法によって見いだされた意識の特徴は「意識の流れ」である。ジェームズの心理学の中心である。意識を要素に分かたず、まとまりのある全体としてとらえる。この姿勢は、後のゲシュタルト心理学を思わせる。ジェームズ・ランゲ説(情動の抹消起源説)…「泣くから悲しい」「逃げるから恐い」のであって、その逆でないという。

 「脳の構造:胎生学的概観」の説明。

 最初の両半球は、ただその各々の視床でもって結合されているが、胎生期の第4月、第5月の頃には視床の上で、両半球間とその正中を大きな橋のように横切る横行繊維の一大組織が成長し、両半球の壁内に放射し、左右両側の回の間に直接の結合を形成する。脳梁の下に脳弓と呼ばれるいま一つの線維の組織ができ、これと脳梁の間には特殊な結合がある。視床の直前、両半球の始まるところに線条体という神経節の塊がその壁にできている。その構造は複雑で、レンズ核および尾状核と呼ばれる2つの主要な部分から成り合っている。[6]

 1902年に夏目漱石がイギリス留学後購入した著作でもある。

1892年に『心理学原理』のページ数が膨大であったため、教科書用として短縮版を出版。

完成後は、ジェームズは心理学者と呼ばれることを好むようになり、心理学の実験室も譲る。[6]

1897年に講義録『信ずる意志』。

 また心理学教授の地位をゆずる。[3]

1898年、ジェームズがその年に行ったカルフォルニア大学の講演会で、当時、全く「無名」の人物であったパースが提唱した(1878年『通俗科学月報』1月号掲載「いかにしてわれわれの観念を明晰にすべきか」論文)新しい思想であるプラグマティズムを、「私たちが真理からそれないための指針である。私自身でその原理に従ってみて、ますます確信を深めた」と絶賛しつつ、紹介した。[7]

1902年に『宗教的経験の諸相』を刊行した。

宗教心理学ののみならず臨床心理学の古典。[6]心理学から哲学への過渡期を記念する労作。副題として「人間性の研究」としるされているように、ジェイムズにとって宗教は、人間の本性にねざす根本的な経験の事実であった。自然科学の経験も宗教の経験も同じように彼の世界観を規定すべき権利をもっていたのである。[3]

1904年に『純粋経験の世界』、1907年に『プラグマティズム』を刊行、当時のアメリカを代表する哲学者になった。心理学の面では、彼の誘いでヒューゴー・ミュンスターバーグが1897年に、ハーバード大学の応用心理学の教授となった。

1910年心臓病で死去したが(68歳)、その後遺作といえる『根本的経験主義』(1912年)、『哲学の諸問題』(1911年)が刊行された。

生涯の大部分をハーバード大学の教授として過ごした。また、ヨーロッパ各地へ旅行し、フランスのアンリ・ベルクソンウィーン学派の人々などとも交流を深め、自身の哲学にも影響した。ジェームズを通して、シャルル・ルヌーヴィエ、ホッジスン、フェヒネルパースサンタヤナ、パピニ、シラー、デューイミュンステルベルク、パウルゼン、ブゥトルーなどの新旧の思想家がアメリカ学会に紹介された。当時アメリカで出版されたばかりの内村鑑三余はいかにしてキリスト教徒となりしか』に興味を持ち、それを推薦した人からもらった感謝状が残っている。


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