ウィリアム・シェイクスピア
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ランカシャーの生まれで、ホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している[15][16][17]。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている[18]

ランカシャー説を取る研究者(ジョン・ジョゼフ・バグリー、結城雅秀河合祥一郎など)は後にシェイクスピアと交流を深める役者たちが別の劇団に入っていたことに注目、シェイクスピアも彼等がいた劇団で役者として入ったと推測している。ホートンやヘスケスと親しい第4代ダービー伯爵ヘンリー・スタンリー(英語版)がヘスケスの隣人で、長男のストレンジ卿ファーディナンド・スタンリー(後の第5代ダービー伯爵)が抱える劇団『ストレンジ卿一座(英語版)』に前述の役者たちが所属、かつシェイクスピアの初期の作品が上演されているからであり、ホートン家を去ったシェイクスピアはヘスケスの紹介でストレンジ卿一座に入り、リチャード・バーベッジら役者たちと知り合い、戯曲を書きあげていったとされている。なお、1592年3月3日にシェイクスピアのデビュー作である『ヘンリー六世 第1部』はストレンジ卿一座がローズ座で上演している[19]
ロンドンの劇壇進出ロンドンに復元されたグローブ座

1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』("Greene's Groatsworth of Wit")において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている[注釈 2]

1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座(英語版)として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣(英語版)の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーがパトロンとなっていた。シェイクスピアの所属変更は同年の第5代ダービー伯(ストレンジ卿)急死でパトロンを失ったストレンジ卿一座がハンズドン男爵に引き取られ、宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピアは1593年に出版した物語詩『ヴィーナスとアドーニス』をダービー伯の友人だったサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーに献呈、翌1594年にも『ルークリース凌辱』を献呈しサウサンプトン伯の信頼を獲得、新たなパトロンを手に入れた。『恋の骨折り損』もこの頃に作られたと言われ、オックスフォードで海軍大臣一座(英語版)のパトロンである海軍卿(英語版)のエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワード、ペンブルック伯一座(英語版)のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバート(英語版)とサウサンプトン伯、ストレンジ卿が会った出来事を参考にした部分が多く見られる[20]

しかし、サウサンプトン伯との繋がりが災難をもたらしたこともある。1601年2月8日にサウサンプトン伯が友人の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーと共にエリザベス1世の側近ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)らを排除するクーデターを起こし、失敗して捕らえられたエセックス伯が25日に処刑された(共に捕らえられたサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味はシェイクスピアら宮内大臣一座に働きかけて金を支払い、クーデター前日の2月7日にグローブ座で『リチャード二世』を上演させた。エセックス伯の意図は国王が廃位される場面を上演させ民衆を扇動させようとした所にあったが、反乱が失敗するとシェイクスピアら宮内大臣一座はこの上演とサウサンプトン伯の関係で立場が危うくなり、政府の取り調べを受けたがお咎めは無かった[21]

1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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