シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』("The Two Menaechmuses")との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される[12]根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である[11]。 1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイと結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている[注釈 1]ため、結婚式がそこで行われた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このとき、アンはすでに妊娠3か月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。結婚後、妻のアン・ハサウェイは悪妻と化した為、家庭生活は不幸だったと言われている[13]。 1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生まれ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんでつけられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行われた。 結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years)と呼ばれる[14]。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」などいくつかの伝説が残っているが、いずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である[15]。 シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ランカシャーの貴族アレグザンダー・ホートンが1581年8月3日付で異母弟トーマス・ホートンに記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、弟が役者たちの面倒を見ない場合はこれらを親族サー・トマス・ヘスケスへ贈ることを書いた部分に加え、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト(William Shakeshaft)」の面倒を見てやってほしいというヘスケスへの要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである[15]。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれで、ホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している[15][16][17]。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている[18]。 ランカシャー説を取る研究者(ジョン・ジョゼフ・バグリー
結婚後
ロンドンの劇壇進出ロンドンに復元されたグローブ座