シェークスピア[4]、シェークスペーヤ[5][6]、シェークスピーヤ[7][8]とも。
「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国語での表記「莎士比亞」(繁体字での表記で、簡体字では「莎士比?」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。日本に作品が伝わってまもない明治時代などでは「沙翁」と表記されたこともある[9]。 本節ではウィリアム・シェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については作品の節を参照。 ウィリアム・シェイクスピアは1564年にイングランド王国のストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリー・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。 エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったため、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行うのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠に基づいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギオス(聖ジョージ)を記念するゲオルギオスの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。 シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である[10]。 父はシェイクスピアの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。 シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校
生涯
生い立ちストラトフォード=アポン=エイヴォンにあるシェイクスピアの生家シェイクスピアの生家から車で10分ほどの距離にある、妻アンの実家