ウィリアム・ウォレス
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またこれ以降ウォレスは「サー・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになっており、守護官に任じられると同時に勲爵位が与えられたと見られる[13]。誰がウォレスに勲爵位を与えたかは判然としない。理論上では騎士であればだれでも別の騎士を任命することは可能だったが[14]、イングランドの年代記には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている[10]。この記述からナイジェル・トランターはキャリック伯爵ロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)がウォレスに勲爵位を与えたと主張している。当時の12人のスコットランド伯爵の中で、ある者は未成年、ある者はイングランド側、ある者は闘争から遠く離れて生きていたなどの消去法によって出された結論である。ただ新たなる文書による裏付けができない限り、これも確定することはできない[15][注釈 1]

守護官となって実質的にスコットランドの国政を任されたウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ったと見られ、1297年10月にはドイツリューベックハンブルクに宛てて「リューベックとハンブルク、2つの町の商人は今やスコットランド王国の全ての地域に自由に出入りできる。その自由は、神の恩顧によって、戦争によって、イングランド人の権限から取り戻されたものである」という内容のラテン語の手紙をモレーとの共同署名で送っている[16]。この文書は「リューベック文書(The Lubeck letter)」と呼ばれるが、第二次世界大戦末にソ連軍が東側へ持っていたために行方不明となり、大戦中のリューベック空襲(ドイツ語版)で焼失したと考えられていたが、1970年代にソ連の文書館で発見され、1990年に交渉の結果リューベック市に返還された[17]。この文書は印璽からウォレスの父親の名前は「アラン」だったと伝えている[4]

ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドカンバーランドに進攻した[8]。しかしモレーはスターリング・ブリッジの戦いで負傷していたため同道しなかった(彼は負傷が原因で1297年終わりごろに死去している)[11]

1298年3月29日付けでウォレスとスコットランド議会の名義でスコットランド軍世襲の旗手アレクサンダー・ル・スクリムジャー(英語版)に書簡が送られているのが確認できる[18][19]
フォルカークの戦い

ウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続け、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった[20]。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに舞い戻ってきた[20]

エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、1298年7月22日にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた(フォルカークの戦い[21]。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、バデノッホ卿(英語版)ジョン・カミン率いる主として貴族から成る騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた[2][22][23]
フランスやローマで交渉

この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは1298年7月にトーフィカンにおいて開いたスコットランド議会で、責任を取る形で「スコットランドの守護官」の職を辞した[2][24]。完全にはウォレスを支持していなかった貴族たちに引きずり降ろされたのか、嫌気がさして辞めたのは不明である[24]。ウォレスの退任後はブルースとジョン・コミンが同職に就任した[25]

この後の1298年から1303年にかけてのウォレスの動向はよく分かっていないが、フランスローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたったことはいくつかの資料から判明している[26]


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