ウィリアム・アダムス
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1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社クローブ号が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。1614年(慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送った。セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。一行が去ったあとは、それまで手伝っていたオランダ商館より安い賃金だったが、母国イギリス商館の仕事を手伝った[5]
家康の死後

家康に信頼された按針だったが、1616年元和2年)4月に家康が死去、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府幕臣たちが海外貿易を幕府に一元化する目的で貿易を長崎平戸の二港のみに制限すると、幾度も幕府に方針の転換を説いたが相手にされず、また秀忠との目通りも叶わず、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなったが、幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。按針は憂鬱な状態のまま、1620年5月26日元和6年4月24日)に平戸で死去した(満55歳没)。

オランダとの貿易を重視していた江戸は、1623年のアンボイナ事件により日英関係が断絶したが、1646年にはイギリスの鉄鋼一族の探検家ロバート・ダドリー(英語版)が著書『海事辞典』の中で江戸の地図を発表している。
夫人について

帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年(慶長7年)頃に大伝馬町名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年(明治21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の菅沼貞風『日本商業史』[6]が初出であり、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』[7]を初出とし、牧野『青い目のサムライ三浦按針』[8]の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上夫人の名前は残っていない[9]

彼女との間には、息子ジョゼフと娘スザンナが生まれている。
記念する場所・行事など
横須賀.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}左:横須賀市逸見にある「浄土寺」
右:塚山公園にある「三浦安針墓」。

神奈川県横須賀市逸見には三浦按針の領地があった。同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている[10]

横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり[11]、「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた[10]

日本の開国後、ウィリアム・アダムズの墓探しが行われた。1874年(明治7年)、横浜に住む実業家ジェームズ・ウォルター(James Walter, 1847 - 1909)[12][13]によって、逸見の浄土寺から古い2基の宝筺印塔が見いだされた。ウォルターは「按針塚」周辺の荒廃を憂いて修復を行い、横浜居留のイギリス人や地元の人々などからも支援が行われた[10]。1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟を契機に「安針塚(按針塚)」周辺の大規模な整備が行われ、塚山公園が作られたが、これに際して発掘調査が行われ、埋葬地ではないことが確認された[10]1923年大正12年)3月7日、「三浦按針墓」として国の史跡に指定された。また1940年には、京浜急行(当時は湘南電気鉄道)の駅が、「安針塚駅」に改名されている。


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