ウィリアムズF1
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チームとしてグラウンド・エフェクト理論の研究が済んでいなかったことや資金不足から同マシンはあえて保守的な設計を取っていたが、第15戦の2位表彰台を含む計3回入賞を記録し、コンストラクターズランキング9位となった。

1979年、チームはサウジアラビア航空やアルビラッド、TAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。その際、フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたと言われている。この年の第5戦から研究を重ねて完成させたFW07を投入。そして、第9戦イギリスGPでクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でさらに4勝を記録した。

そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。

1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。

1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。
1984年?1987年 ホンダとの提携キヤノンカラーにICIロゴのFW11B・ホンダ

1983年は旧シャーシ熟成型となるFW08Cで参戦し、勝利はロズベルグによるモナコGPでの1勝のみに終わるが、同年にエンジンサプライヤーとして15年ぶりにF1活動を再開したホンダと交渉を開始し、6月には契約締結に成功[6]。以後はV6ターボエンジンを搭載する新シャーシの開発に注力。1983年の最終戦にてFW09をデビューさせる。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり[7]、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年アメリカGP(ダラス)で酷暑のレースをロスベルグが制し、ホンダエンジンとしては17年ぶりとなるF1での勝利をものにした。この1984年よりロズベルグが仲介役となり新たにウィリアムズの大口スポンサーとなったインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)[8]は、80年代を通して長らく円形のロゴをウィリアムズのフロントノーズに載せ続けることとなった。

1985年にはキヤノンとのメインスポンサー契約が成立。ジャック・ラフィーのリジェ移籍が決まった為、ルノーのデレック・ワーウィックに獲得オファーをするも、ルノー残留を望んだワーウィックに断られたため[9]ロータスピーター・ウォーと不仲となり放出されたナイジェル・マンセルを獲得しロズベルグとのコンビとなった。FW10は第5戦からホンダの新設計エンジン「RA165E」を搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善してシーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPがF1初優勝、出走72戦目で当時は最も遅い初優勝だった。ホンダ・ターボの初期開発を支えたロズベルグはマクラーレンへの移籍が決まり、4年在籍したウィリアムズを去った。

1986年、2度のワールドチャンピオン経験者であるネルソン・ピケが加入。この時点でマンセルはまだ前年の1勝のみであり、ピケは完全No.1待遇でウィリアムズと契約した。この年はホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。この背景は、契約上ではピケがNo.1ドライバーとして加入したにもかかわらず、それに反発するようにチームが自国ドライバーのマンセルを優遇し、両ドライバーの険悪な関係を招いた。また、チームオーナーのフランクが交通事故により脊椎骨折の重傷を負い[10]、下半身麻痺となり車椅子での生活を余儀なくされた。それでも車椅子姿でチームの指揮を執ったが、定期的な療養が必要であったため、リーダーとしてチーム内の混乱を収める余裕がなかった。さらに、フランクも含むチーム側がマンセルを支持していたのに対し、エンジンを供給するホンダはピケのウィリアムズ加入を推薦したことやピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していたこともこの混乱に拍車をかけた。ピケはこの2年後に受けたインタビューで「契約から半年後にはNo.1待遇の約束が反故にされ状況が難しくなった。マンセルは1986年のブランズハッチで優勝して、その翌週にフェラーリからマンセルを獲得したいと声がかかった。するとフランクはマンセルに多くのことを約束し、チームに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。No.1のはずの僕はアクティブサスペンションのテストドライバーに成り下がってしまった。サスペンション開発のテスト走行を全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中してて良いなんてことを承服できるわけがない。」とこの年の内情を述べている[11]

こうしたチーム内の混乱を突かれ、最終戦オーストラリアGPではマクラーレンアラン・プロストにドライバーズチャンピオンをさらわれてしまった。最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームであった2人がチャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力の分散を真っ先に挙げた[12]

1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを実戦投入し、イタリアGPで勝利している。しかしマンセルを優遇するチームへの不満が募ったピケはロータスへの移籍が決定。さらにホンダがピケと入れ替わる形で日本人である中嶋悟の起用を打診するもチーム側は拒否するなどホンダとの関係も急速に悪化し、ホンダは供給先をロータスとマクラーレンの2チームに変更してウィリアムズへの供給を同年限りで打ち切ることを発表[13]。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失う幕切れとなった。
1988年 ジャッド時代

ホンダターボを失った1988年は、自然吸気(NA)のジャッドエンジンを搭載したFW12で参戦。マンセルが2回2位を獲得したもののエンジンの信頼力不足、アクティブサスペンションの熟成不足等により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降は旧来のパッシブサスペンションに戻す混乱もあり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。なお、ウィリアムズがジャッドエンジンの供給を受けるための費用はホンダが肩代わりした。契約期間を1年早く打ち切った穴埋めの一部であった[14]

マンセルはシーズン終了後フェラーリへ移籍した。
1989年?1997年 ルノーとの黄金期

1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。ルノーエンジンとFW12シャシーのマッチングも良く、ジャッドとは比較にならない程の戦闘力に高まり、マンセルの後任となったティエリー・ブーツェンが雨のカナダGPで当時の最遅初優勝記録という形で優勝[注 1]。カナダと同じく雨での開催だった最終戦オーストラリアGPもブーツェンが制し、シーズン2勝を挙げた。

1990年にはリカルド・パトレーゼサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポールトゥーウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスの不調の責任を取らされる形で放出された前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイとすぐさま交渉し契約に成功。


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