ウィリアマイト戦争
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降伏時に結んだ協定でサースフィールドやジャコバイト軍はフランスへ渡ることが認められ、ギンケルはアイルランド平定の功績でアスローン伯爵に叙爵、ションバーグの息子でボイン川の戦いに参戦したメイナード・ションバーグレンスター公爵に、オーグリムの戦いで手柄を挙げたヘンリー・デ・マシューはゴールウェイ子爵に叙爵された。ジャコバイト一掃で障害がなくなったウィリアム3世は大陸へ上陸、フランス軍と交戦することになる。

より人々の記憶に残ったのはオーグリムの戦いで、この戦闘で4000人が戦死し、同数が捕虜となった。ボイン川の勝利もあわせて7月12日はオレンジ党勝利記念日として現在も北アイルランドでパレードが行われている[6]
戦争の影響

ウィリアム3世はリムリックの降伏にあたってカトリックの土地所有・公職叙任を約束したが、これは守られなかった。この「裏切り」は後々まで語り継がれ、cuimhnidh Luimneach agus feall na Sassanaigh(イングランド人の裏切りとリムリックを忘れるな)というアイルランドの格言が残った。

ともあれ戦争の勝利によって、ウィリアム3世の英蘇愛3国支配が事実上承認され、ジェームズは一時的に敗北を認めざるをえなかった。アイルランドは19世紀まで、少数のプロテスタントによって統治されることとなった。ウィリアマイト軍の勝利は、イングランドにとっては宗教的・市民的自由の勝利であった。この勝利によってプロテスタントはカトリック信徒による虐殺から救われたと考えられた。こうしてオレンジ党勝利記念日は、ユニオニストにとっての祝日となった。

一方でウィリアム3世に対するアイルランド人の恨みは後々まで残り、ジャコバイト蜂起が起きると、彼らはジャコバイト側に立って参戦した。アイルランド人にとってジェームズとその子孫は、ボイン川の戦いの悪評にもかかわらず、奪われた土地の回復と宗教的自由をもたらす救世主であり続けた[7]
脚注^ a b Chandler (2003), Marlborough as Military Commander, p. 35
^ Bartlett & Jeffery 1997, p. 190.
^ a b Manning 2006, p. 398.
^ 浜林、P232 - P234、友清、P130 - P137。
^ 浜林、P234 - P236、友清、P137 - P147。
^ 友清、P147 - P159。
^ 浜林、P237 - P240。

参考文献

浜林正夫『イギリス名誉革命史 上巻』未来社、1981年。

友清理士『イギリス革命史(下)』研究社、2004年。










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