ウィスコンシン州
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1845年にウィスコンシン準州が設立されたときに、その議会によってこの綴りが公式のものとされた[5]

「ウィスコンシン」に対応するインディアンの言語も、元々の意味も曖昧になってきている。諸説ある中で最も支持されている説は、川とその岸にある赤い砂岩を指すというものである。マイアミイリノイ族の言葉に Meskousing があり、「赤く横たわる」という意味である。これはウィスコンシン・デルの赤みを帯びた砂岩の横をウィスコンシン川が流れる様子を表現している[6]。その他の説ではオジブウェー語で「赤い石の場所」、「水が集まる所」、あるいは「大きな岩」を意味するとしている[7]
歴史主要記事:ウィスコンシン州の歴史1718年のウィスコンシン、ギローム・ド・ライルによる地図、ハイライトになっているのが現在の州域

ウィスコンシン州となった地域では、過去12,000年の間に様々な文化が生まれてきた。最初の人類はウィスコンシン氷河のあった紀元前10,000年ごろに入ってきていた。彼等はパレオ・インディアンと呼ばれ、現在は絶滅している氷河期の動物を狩っていた。このことは、州の南西部で槍先と共に出土した前史時代のマストドンであるボアズ・マストドンの骨格で裏付けられている[8]。紀元前8,000年ころに氷河期が終わると、人々は狩猟、漁猟、野生の植物の採集で生活するようになった。紀元前1,000年から紀元後1,000年に掛けてのウッドランド期、次第に農業社会が現れるようになった。その期の終わりごろに、地域に数多い動物の形をしたマウンドを築いた「エフィジー・マウンド文化」の中心となった[9]。西暦1000年から1500年、ミシシッピ文化とオネオタ文化で、ウィスコンシン南東部のアズタランにあった防御を施した集落など、かなりの定着地ができていた[10]。オネオタ族は現代のアイオワ族やホーチャンク族の祖先と考えられ、ヨーロッパ人が接触したときにはメノミニー族とともに地域を分け合っていた[11]。その他にこの地域に住んだ部族として、オジブワ族、ソーク族フォックス族キカプー族、ポタワトミ族などがあり、1500から1700年の間に東部から移り住んできていた[12]ジャン・ニコレ、1910年フランク・ロールベック画、この壁画はグリーンベイ市のブラウン郡庁舎に納められている

1634年、フランス人のジャン・ニコレ(Jean Nicolet)が、現在のウィスコンシンを訪れた最初の白人探検家とされている。五大湖を通り、ヒューロン湖ジョージア湾から西にカヌーで進み、グリーン湾のレッドバンクス近くで上陸したというのが通説である[13]。ピエール・ラディソンとメダール・デ・グロセイユールが1654年から1666年にはグリーン湾を、1659年から1660年にはシワーミガン湾を訪れ、土地のインディアンと毛皮交易を行った[14]。1673年、フランス人探検家ジャック・マルケットルイ・ジョリエが、フォックス・ウィスコンシン水路を経てミシシッピ川のプレーリードゥシーン近くに達し、その日誌を残したことでは最初の者になった[15]。17世紀から18世紀、ニコラス・ペローのようなフランス人が地域全体で毛皮交易を続けたが、フランスは恒久的な開拓地を設けなかった。

フレンチ・インディアン戦争の後、フランスは同地をイギリスに譲渡した(1763年)。それでもフランス人交易業者は地域で事業を続け、シャルル・ド・ラングレイドのように、イギリスに支配されたカナダに戻るよりもウィスコンシンに恒久的に留まる道を選んだ者もいた[16]

その後、独立戦争などを経て、ウィスコンシンを含む地域はアメリカ合衆国の領土に編入された。しかしその後もイギリスがこの地域を実効支配していたが、米英戦争を経てアメリカ合衆国が支配するようになった[17]。地域経済は交易から鉛鉱業に移っていった。ミネラルポイントやドッジビルおよびその周辺にある鉛鉱床でたやすく富を得られる見込みに惹き付けられたアメリカ人やヨーロッパ人が数多くこの地域に入ってきた。坑夫の中には穴を掘って住居にした者もおり、「アナグマ」という渾名も頂戴した。これがウィスコンシン州の渾名「あなぐま州」の由来になった[18]。白人坑夫が大挙流入してきたことで、土地のインディアンとの間に緊張関係が生じた。1827年のウィネベーゴ戦争、1832年のブラック・ホーク戦争の結果、州の大半の地域からインディアンは退去させられた[19]。ウィスコンシンは1836年ウィスコンシン準州1848年には30番目の州として昇格した。リポン市にあるリトルホワイトスクールハウス、共和党の最初の集会が開催された

ウィスコンシン州初期の政治は、奴隷制度に関する全国的な議論に巻き込まれた。ウィスコンシン州は創設時から自由州であり、北部の奴隷制度廃止論の中心になった。1854年、ジョシュア・グローバーというミズーリ州から逃亡してきた奴隷ラシーン市で捕まったときに、議論は白熱したものになった。グローバーは1850年の逃亡奴隷法の下に収監されたが、奴隷制度廃止論者の暴徒が監獄に押し寄せ、グローバーの身柄を確保して、カナダへの逃亡を助けた。この事件に続く裁判でウィスコンシン州最高裁判所は、逃亡奴隷法が違憲であると宣言した[20]。リポン市で奴隷制度拡大に反対する行動家によって1854年3月20日に結成された共和党は、これらの出来事の後で州の政治を支配するようになった[21]南北戦争のとき、ウィスコンシン州から約91,000名の兵士が北軍で戦った[22]工業化の進んだミルウォーキー市、1882年

ウィスコンシン州経済は州昇格の初期に多様化を進めた。鉛鉱業が衰退し、州南部では農業が主要産業になった。州内に鉄道が建設されて農作物を市場に運ぶようになり、ラシーン市では農業用機械を製作するためにJ・I・ケース&カンパニーのような製造業が生まれた。1860年代の短期間ではあるが、小麦の生産高では国内最大級になった[23]。一方で州北部の森が深い地域では製材業が繁栄し、ラクロス、オークレア、ウォーソーなどの都市には製材所ができた。これらの経済活動によって環境問題も起こっていた。19世紀末までに大々的な農業で土壌を疲弊させ、製材業は州内の森を切り尽くしていた[24]。小麦農業と製材業は急速に衰退していった。チェイス市のダニエル・E・クラウス石造納屋、1903年建設、酪農業が州内に広まった

1890年代から農夫はその土地をより持続可能で利益を生むものにするために、小麦から酪農製品に移っていった。多くの移民がチーズの製法をもたらしており、地域の地形が適していたことと、ウィスコンシン大学のスティーブン・バブコックによる酪農に関する研究もあって、「アメリカの酪農地帯」と呼ばれるまでに成長した[25]。一方で、アルド・レオポルドなど環境保護運動家が20世紀初期に森林の再生に貢献し[26]、製材業の再建と製紙業創設への道を開き、さらには北部森林地での観光開発に寄与した。20世紀初期には製造業も急成長した。これにはヨーロッパからの多くの移民が労働力となった。ミルウォーキーのような工業都市では醸造業や食品加工業から重機械や工具の製造業まで幅広いものとなり、1910年には総生産高で全米8位にまでなった[27]ロバート・M・ラフォレットウィスコンシン州知事、1905年にイリノイ州ディケーターで演説中

20世紀初期はロバート・M・ラフォレットを筆頭とする進歩主義が台頭した時代でもあった。ウィスコンシン州の進歩派共和党は州全体に渡る最初の包括的予備選挙を導入し,[28]、最初の実質的労働災害補償法を制定し[29]、州税として最初の所得税を定め[30]、所得に応じた課税体系にした。


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