ウィスコンシン州
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ウィスコンシン州(ウィスコンシンしゅう、: State of Wisconsin [w?s?k?ns?n] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国中西部の北部に位置する五大湖地域にも含まれる。合衆国50州の中で陸地面積では第23位、人口では第20位である。前身のウィスコンシン準州から1848年5月29日に合衆国30番目の州に昇格した。東側はミシガン湖に、北東はミシガン州に、西側はミネソタ州アイオワ州に、南側はイリノイ州に、北側はスペリオル湖に接している。州都はマディソン市、人口最大の都市はミルウォーキー市である。

愛称は「Dairy Country(酪農の国)」または「The Badger State(あなぐま州)」。アメリカアナグマ(バジャー)は州のシンボルでもあり、19世紀前半、ウィスコンシン州が国内のの半分以上を産出した鉛ラッシュ時代に、鉛鉱山で働く鉱夫とその家族が地上に住居が完成するまで坑道に住んだことから「アナグマ」と呼ばれたことが元になっている[1]

家庭で話される言語(ウィスコンシン州) 2010[2]

英語  91.71%
スペイン語  4.35%

人種構成(ウィスコンシン州) 2010

白人  83.3%
黒人  6.3%
ヒスパニック  5.9%
アジア系  2.3%
インディアン  1.0%
混血  1.8%

州名の由来

州の名前はウィスコンシン川に由来し、「ウィスコンシン」は、インディアン部族オジブワ族言葉で「赤い石の地」を意味する「Miskwasiniing」がフランス語風になまった言葉が元になっているとされる[3]

1673年、フランス人探検家ジャック・マルケットがヨーロッパ人としては初めてウィスコンシン川に達し、その日誌に川の名前を Meskousing と記録した[4]。後のフランス人探検家がその綴りを Ouisconsin と改変し、その後の年月を経てこれが川と周辺地域のフランス語による名前となった。19世紀初期にイギリス系の移民が多くこの地域に入ってくるようになると、その名前を英語風の綴りに変え、Wisconsin となった。1845年にウィスコンシン準州が設立されたときに、その議会によってこの綴りが公式のものとされた[5]

「ウィスコンシン」に対応するインディアンの言語も、元々の意味も曖昧になってきている。諸説ある中で最も支持されている説は、川とその岸にある赤い砂岩を指すというものである。マイアミイリノイ族の言葉に Meskousing があり、「赤く横たわる」という意味である。これはウィスコンシン・デルの赤みを帯びた砂岩の横をウィスコンシン川が流れる様子を表現している[6]。その他の説ではオジブウェー語で「赤い石の場所」、「水が集まる所」、あるいは「大きな岩」を意味するとしている[7]
歴史主要記事:ウィスコンシン州の歴史1718年のウィスコンシン、ギローム・ド・ライルによる地図、ハイライトになっているのが現在の州域

ウィスコンシン州となった地域では、過去12,000年の間に様々な文化が生まれてきた。最初の人類はウィスコンシン氷河のあった紀元前10,000年ごろに入ってきていた。彼等はパレオ・インディアンと呼ばれ、現在は絶滅している氷河期の動物を狩っていた。このことは、州の南西部で槍先と共に出土した前史時代のマストドンであるボアズ・マストドンの骨格で裏付けられている[8]。紀元前8,000年ころに氷河期が終わると、人々は狩猟、漁猟、野生の植物の採集で生活するようになった。紀元前1,000年から紀元後1,000年に掛けてのウッドランド期、次第に農業社会が現れるようになった。その期の終わりごろに、地域に数多い動物の形をしたマウンドを築いた「エフィジー・マウンド文化」の中心となった[9]。西暦1000年から1500年、ミシシッピ文化とオネオタ文化で、ウィスコンシン南東部のアズタランにあった防御を施した集落など、かなりの定着地ができていた[10]。オネオタ族は現代のアイオワ族やホーチャンク族の祖先と考えられ、ヨーロッパ人が接触したときにはメノミニー族とともに地域を分け合っていた[11]。その他にこの地域に住んだ部族として、オジブワ族、ソーク族フォックス族キカプー族、ポタワトミ族などがあり、1500から1700年の間に東部から移り住んできていた[12]ジャン・ニコレ、1910年フランク・ロールベック画、この壁画はグリーンベイ市のブラウン郡庁舎に納められている

1634年、フランス人のジャン・ニコレ(Jean Nicolet)が、現在のウィスコンシンを訪れた最初の白人探検家とされている。五大湖を通り、ヒューロン湖ジョージア湾から西にカヌーで進み、グリーン湾のレッドバンクス近くで上陸したというのが通説である[13]。ピエール・ラディソンとメダール・デ・グロセイユールが1654年から1666年にはグリーン湾を、1659年から1660年にはシワーミガン湾を訪れ、土地のインディアンと毛皮交易を行った[14]。1673年、フランス人探検家ジャック・マルケットルイ・ジョリエが、フォックス・ウィスコンシン水路を経てミシシッピ川のプレーリードゥシーン近くに達し、その日誌を残したことでは最初の者になった[15]。17世紀から18世紀、ニコラス・ペローのようなフランス人が地域全体で毛皮交易を続けたが、フランスは恒久的な開拓地を設けなかった。

フレンチ・インディアン戦争の後、フランスは同地をイギリスに譲渡した(1763年)。それでもフランス人交易業者は地域で事業を続け、シャルル・ド・ラングレイドのように、イギリスに支配されたカナダに戻るよりもウィスコンシンに恒久的に留まる道を選んだ者もいた[16]

その後、独立戦争などを経て、ウィスコンシンを含む地域はアメリカ合衆国の領土に編入された。しかしその後もイギリスがこの地域を実効支配していたが、米英戦争を経てアメリカ合衆国が支配するようになった[17]。地域経済は交易から鉛鉱業に移っていった。ミネラルポイントやドッジビルおよびその周辺にある鉛鉱床でたやすく富を得られる見込みに惹き付けられたアメリカ人やヨーロッパ人が数多くこの地域に入ってきた。坑夫の中には穴を掘って住居にした者もおり、「アナグマ」という渾名も頂戴した。これがウィスコンシン州の渾名「あなぐま州」の由来になった[18]。白人坑夫が大挙流入してきたことで、土地のインディアンとの間に緊張関係が生じた。1827年のウィネベーゴ戦争、1832年のブラック・ホーク戦争の結果、州の大半の地域からインディアンは退去させられた[19]。ウィスコンシンは1836年ウィスコンシン準州1848年には30番目の州として昇格した。リポン市にあるリトルホワイトスクールハウス、共和党の最初の集会が開催された

ウィスコンシン州初期の政治は、奴隷制度に関する全国的な議論に巻き込まれた。ウィスコンシン州は創設時から自由州であり、北部の奴隷制度廃止論の中心になった。1854年、ジョシュア・グローバーというミズーリ州から逃亡してきた奴隷ラシーン市で捕まったときに、議論は白熱したものになった。グローバーは1850年の逃亡奴隷法の下に収監されたが、奴隷制度廃止論者の暴徒が監獄に押し寄せ、グローバーの身柄を確保して、カナダへの逃亡を助けた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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