初期のBomis社のプレスリリースでも、ウィキ導入のアイデアはサンガーの提案とされていた[46]。ウェールズも、2001年10月30日のウィキペディア・メーリングリストにおいて、ウィキを使用するアイデアはサンガーが持っていたと述べている[47]。しかしその後、ウィキのアイデアはヌーペディアを運営するBomisの社員であったジェレミー・ローゼンフェルド(Jeremy Rosenfeld)から聞いたとウェールズは述べており、現在ではそれぞれの認識が異なっている[46][48]。2005年には、ウェールズ自ら、英語版ウィキペディアの「Jimmy Wales」の記事にこの認識を書き込んでいる[49]。
ウィキのウェブページをヌーペディアに利用するという案に対しては、ヌーペディアの執筆者と査読者から強硬な反対意見があったため、「Wikipedia(ウィキペディア)」と名付けた新たなプロジェクトを立ち上げ、独自のURLアドレスであるwikipedia.comにて同年1月15日から開始することになった。「Wikipedia」という名称はサンガーによって付けられたもので[13][50][14]、サンガーは「とても馬鹿げたプロジェクトのための馬鹿げた名前」を付けたと述べている[13]。アンドリュー・リー(英語版)によれば、wikipedia.comにおける最初の記事は英語のアルファベット「U」についての記事で、21番目のアルファベット「U」の起源や歴史が説明されたものであった[51]。英語版ウィキペディアには、この最初の記事についての記念ページが作られている[52][† 4]。
ネットワーク帯域と、カリフォルニア州サンディエゴに設置したサーバはウェールズが資金を提供した。また、2002年1月まで、サンガーはヌーペディアの主幹編集員兼ウィキペディアの非公式管理人として「Bomis」に雇われていた。資金の枯渇から、2002年3月にサンガーへの給与打ち切りが決まり、サンガーはウィキペディアを含むプロジェクトでの活動を停止した。 プロジェクトは、参加人員、記事数、編集・投稿総数などいずれの尺度においても増加する傾向にあり、増加のペースも高まる傾向にある。この主な要因として、マスメディアや多くの人が利用するウェブサイトでの紹介、サーチエンジンへの掲載などが挙げられる。特に顕著なものとして、次のものが挙げられる。 投稿の内、特に大規模なものに、アメリカ合衆国の各市町村を扱ったものがある。これはディレック・ラムゼイ(Ram-Man)が2002年10月、「インターネットボット」(あるいは「プログラム」)を稼働させて国勢調査のデータから、自動的に記事を生成したもの。同様のボットは他の主題についてもしばしば使用された。その総数はおよそ3万本とされる。 多言語化に乗り出したのは2001年の5月頃であると思われる。当時の発表によれば12前後の非英語版サイトが発足した[† 5]。ただし、それらの新設ウィキペディアで必ずしもすぐに執筆が盛んになったわけではない。 2002年12月、姉妹プロジェクトであるウィクショナリー(Wiktionary)が創設された。これは、多言語の辞書とシソーラスを制作することを目標にしているプロジェクトである。ウィキペディアと同じサーバで、同じソフトウェアを使って活動している。翌2003年に、本や教科書の作成プロジェクトであるウィキブックス (Wikibooks)、箴言集(しんげんしゅう)であるウィキクォート(Wikiquote)なども発足した。 これらのプロジェクトは、しばしばウィキメディアプロジェクトと総称される。こうした姉妹プロジェクトもまた増加傾向にあり、2004年には新規の3つのプロジェクトが創始された。 ハードウェアは、発足当初は、「Bomis」のサーバを間借りする形であった。ソフトウェアは、クリフォード・アダムズによるUseModWikiを用いていた。 2002年1月、英語版と、プロジェクト全体に関わる問題を議論するためのサイトであるメタ・ウィキメディア
拡大とその契機
技術情報ウェブサイトスラッシュドットでの紹介(2001年3月5日、5月30日、2003年1月24日)
参加型技術情報・カルチャーウェブサイトKuro5hin(2001年6月26日)での紹介
ソフトウェアおよびハードウェア
2003年5月半ば頃よりもう1台専用のサーバが導入された。コードネームは「larousse」。これは英語版のウェブサーバとして用いられた(データベース部分は、従来通り専用サーバによって担当される)。「Bomis」のサーバに間借りしているウィキペディアも、活動が活発になるにつれて徐々にplinyへ移行した。
その後、プロジェクトの拡大により、サーバは順次増強されていった。