自治連盟とチャールズ・スチュワート・パーネルのアイルランド議会党はウェストミンスターへ多数の議員を送り出し、議事妨害戦術と議会内でのパワーバランスを利用してアイルランドの自治権を目的とした3つのアイルランド自治法案を提出した。しかしながら、パーネルの目標は自治法に留まらなかった。これは1885年の演説で明らかになる。「何びとにも、国家の境界を変えることはできない……」と彼は述べている[4] 。1886年の最初の自治法案は庶民院で否決された。パーネルの失脚と死後の1893年に二度目の自治法案が庶民院を通過したが、貴族院で否決された。1912年の三度目の自治法案は再び貴族院で否決されたが、1911年議会法(庶民院を三度通過した法案を貴族院は拒否できない)に基づき、2年後に立法化した。ジョン・レドモンド(アイルランド議会党党首)はパーネルと異なり、自治法自体が最終目的であった[5]。
サー・エドワード・カーソン率いるアルスター統一党それに保守党と貴族院は自治法に反対し、これを自己の権益への脅威とみなしていた。1913年1月13日に統一党はアルスター義勇軍を結成し、自治法の施行に武力で抵抗する準備をし、保守党のアンドルー・ボナー・ローと他の党員も実力行使を試みた[6][7][8] 。この動きに対して、1913年11月25日に自治法を守るためのアイルランド義勇軍が結成された[9] 。1914年9月18日に自治法は国王の認可を受けたが、アルスター地方は除外された[10]。その後、自治法は施行の1ヶ月前に勃発した第一次世界大戦によって延期されてしまい、大戦によってアイルランド義勇軍は分裂し、大部分は連合国と英国の戦争努力に協力するレドモンド派の国民義勇軍となる。一方、IRBは強硬派のトマス・クラーク[11] やショーン・マクディアマダによって再組織され、英王室を元首に戴いた大英帝国内での自治に留まらず、アイルランド共和国の独立を計画し続けていた[12]。
首謀者たちの「自らの死をもって祖国独立の礎とする」というロマン主義的な民族主義は、首謀者の一人パトリック・ピアースの「血の犠牲」という言葉でよく知られているが、この言葉のイメージの源は、ウィリアム・バトラー・イェイツとグレゴリー夫人が共作した強い愛国メッセージを持つ戯曲『キャスリーン・ニ・フーリハン(英語版)』(Cathleen Ni Houlihan, フーリハンの娘キャスリーン。1902年上演)であると言われる[13][14]。 イースター蜂起の計画は8月の英国による対独宣戦布告から数日後には始まっている。IRB最高評議会の会合がパーネル・スクウェア25番地で開かれ、「イングランドの困難はアイルランドの機会である」との古い格言に基づき、戦争が終わる前に何らかの行動を起こすことが決定された。最高評議会は3つの決定を下した。すなわち、軍事評議会を設置する、ドイツからの援助を求める、義勇軍を掌握する、である。 IRBの最終目的は独立したアイルランド国家の樹立であるが、一つの反乱によってそれを達成することはないと考えられていた。
蜂起計画