イースター島
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しかし島民の遺骨のDNAには、島外起源の遺伝情報は見つかっていない。最近の研究により、モアイは島民が自力で建設し、移動させたことがわかっている[8]
文明の崩壊
原因は自然破壊や部族抗争による自滅が原因とする説

島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り、運び、建てるためには大量の木材が必要で、伐採によってが失われた。ジャレド・ダイアモンドらは、こうした人為的な自然破壊が究極的に文明崩壊を呼んだとする説を述べている[6]。それによれば、人口爆発(僅か数10年の間に4?5倍に膨れ上がり、1?2万人に達したという)と共に森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じた。モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋カヌーなどのインフラストラクチャー整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代とほとんど変わらないものになっていた(なお、この説そのものは、ダイアモンドより前から通説となっていたものである[9])。

近年、この文明崩壊は、後述する西洋人の侵略を原因とする説が提示されているが、一方でやはり先住民による自然破壊を原因とする説を支持する学者もいる[10]
原因は環境が激変したためとする説

ただし異説もあり、テリー・ハントは、まず、森を破壊した主因はラットによる食害だとしている。天敵が居ない環境にネズミが持ち込まれると、その急激な繁殖に伴って森林が破壊され、これを駆除すると森林が再生する様子は太平洋の他の島々の歴史上でも見られて来た[4]。当島でも、発掘された植物の種子の多くにネズミにかじられた跡が見られ[4]、文明の崩壊についても、そもそも島の人口が1万5千人以上などに達した証拠はなく、森林破壊が進んだ状態でも人口は安定的に推移しており、最終的に崩壊をもたらしたのは自然破壊ではなく西洋人との接触(後述)だと唱えている[4][7]
原因は西洋人による侵略とする説

島民の人口が減ったのはヨーロッパ人による奴隷狩りが原因であるとする説では、従来言われていたような島民同士の殺戮は発生せず、苛烈な奴隷狩りと外部から持ち込まれた疫病の流行により文明が崩壊したとする[9]

部族の争いがあったにしては、人を殺すことを目的としたような殺傷能力のある「武器」が島内からほとんど発掘されておらず、島で使われていた「マタア」と呼ばれる石器は、人を刺し殺すような作業には適していないという。島内から発掘された469個の頭骨を調べたところ、マタアによるものと思われる切り傷の痕が見つかったのは、そのうちわずか2個だけだった。西洋人による侵略時にも、現地人は投石で戦ったとされる。このことから、口伝にあるような戦闘があったのかどうか疑問視する専門家もいる[11]。また、自然破壊の原因の一つとされたモアイの運搬についても、従来説では木の軌条を作り、その上を滑らせるという大量の木材を必要とする方法であったが、現在では、モアイを立てた状態で、縄で左右に揺らしながら、歩かせるように前に進める方法でも可能である事が、実験で確かめられている。この様子は、島に伝わる「モアイは自分で歩いた」との伝説にも合致する[12]

いずれにせよ、争いが起こったとされる時から数百年も後になってから、収集された口承だけを頼りにすることは、研究者の間で論争となっている[11]。非常に狭く、住民全てが顔見知りという島であるため、「ほんの数人が死亡した事件でも、島全体に話が伝わり、何度も繰り返し話題にされれば、そのうち話が膨らんで実際よりもずっと残虐な出来事として伝えられてしまう」という可能性も指摘されている[9]
ヨーロッパ人到達後クック隊が記したイースター島。モアイは直立した姿で描かれている。

1722年復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日にちなみ島名が付けられたとされている。この島に上陸したロッヘフェーンは、1,000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島民の姿を目の当たりにする[6]。なお、この時点では、まだ文明は崩壊していなかったという説がある[9]

1774年には、イギリス人探検家のジェームズ・クックも上陸しているが、倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたものの、半数ほどはまだ直立していたと伝えている。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる[6]

18世紀?19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、島民が奴隷として連れ出された。


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