インペリアル・イースター・エッグ
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皇帝が結婚20周年の記念に卵型の贈り物を選んだ背景には皇后から聞いた少女時代の思い出があり[2]、デンマークの伯母ヴィルヘルミーネ・マリーが持っていた黄金の入れ子の卵は白い卵殻から雌鳥(めんどり)が現われ、それを開くとダイヤモンドをちりばめた王冠が入っていて、さらに中からダイヤモンドの指輪が出てくるデザインだったという[2][3]

マリア皇后に贈られた純金製の卵は金の素地にエナメルを厚塗りした白い「殻」を開くと、つや消しの黄金で出来た卵黄が現われる。それがひとつめの「お楽しみ」(仕掛け) で、かみ合わせ式の留め金(バヨネット)を外すとスウェードを貼り巣に見立てた中に、色味の異なる金を数種類使い分けためんどりの像がすわっていて、めんどりの留め金を開くと中からダイアモンドを施した小さな帝冠とルビーペンダントヘッドが現われたというが、2つとも現存しない[4]。この贈り物は「最初のめんどりの卵」と名づけられた。

アレクサンドル3世は最初のイースター・エッグがたいへん喜ばれたことからピーター・カール・ファベルジェを「皇室御用達金細工師」に任命すると、翌年、もう1つ作らせ、それから毎年、黄金の卵は恒例の特注品となった。やがて年月とともにデザインがより精巧になっており、皇帝に細かい指示を与えられたファベルジェが自由にデザインする許可を受けたと考えられる。またファベルジェ家の言い伝えによれば、一つひとつのエッグに必ず「お楽しみ」という小物が入れてあること以外、アレクサンドル3世にさえ、どんな形に仕上がるのか知らせなかったという。

1894年11月1日、アレクサンドル3世が没すると注文主は息子のニコライ2世に代わり、妻アレクサンドラと母マリアに黄金の卵をプレゼントし続けた。製作はまずファベルジェ本人がデザイン原案を承認すると、加工はMichael Perkhin、Henrik Wigstrom、Erik August Kollinら歴代の職人頭が受け持っている。1904年から1905年の間は日露戦争のため、卵は作られなかった。1917年にロシア革命が勃発、2代のロシア皇帝に納めたエッグの50点目[注釈 1]に当たる「カレリアの白樺」(英語)は、皇帝の手元に届くことはなかった。皇帝に納めたうち、現在まで伝わったものはこれをふくめて44点である (2014年に発見された1点を含む)。
1700年代の先例

エルミタージュ美術館の研究員タマラ・V・クドリャウゼウによると[5] ロシア皇室にはイースター・エッグの贈り物の先例があり[6]、ファベルジェが製作した「ピョートル大帝」(1903年)のモデルは、エリザヴェータ1世のモノグラム[7] を施し時計を組み込んだデザインで製作時期は1757–1758年、製作地はパリであるという。皇帝のイースター・エッグの最初期の例で、その後、皇位を後継した女帝エカチェリーナ2世の治世にも、恋人のグリゴリー・ポチョムキンからの贈り物と伝わる七宝細工の黄金の卵形の香炉(brule parfum エルミタージュ美術館収蔵)が伝わり、このほかに数例がある。
民間の注文品「#その他のエッグの所在」も参照

ファベルジェ商会はロシア革命までの時期にチャーチル夫人 (1902年) やロスチャイルドのパリ分家ロチルド家(1902年)、ユスポフ家 (1907年)、ノーベル家 (1914年) と、ごく限られた客の注文に応じ、20世紀初頭のロシアの実業家アレクサンドル・ケルヒには7個シリーズを納めた。
国外に散逸

ロシア革命が起き、軍に囚われたアレクサンドラ皇后の持ち物はペトログラードの宮殿に残され、ボルシェビキの逮捕を免れたマリア皇太后はイースター・エッグをひそかに持ち出した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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