インペリアル・イースター・エッグ
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エルミタージュ美術館の研究員タマラ・V・クドリャウゼウによると[5] ロシア皇室にはイースター・エッグの贈り物の先例があり[6]、ファベルジェが製作した「ピョートル大帝」(1903年)のモデルは、エリザヴェータ1世のモノグラム[7] を施し時計を組み込んだデザインで製作時期は1757–1758年、製作地はパリであるという。皇帝のイースター・エッグの最初期の例で、その後、皇位を後継した女帝エカチェリーナ2世の治世にも、恋人のグリゴリー・ポチョムキンからの贈り物と伝わる七宝細工の黄金の卵形の香炉(brule parfum エルミタージュ美術館収蔵)が伝わり、このほかに数例がある。
民間の注文品「#その他のエッグの所在」も参照

ファベルジェ商会はロシア革命までの時期にチャーチル夫人 (1902年) やロスチャイルドのパリ分家ロチルド家(1902年)、ユスポフ家 (1907年)、ノーベル家 (1914年) と、ごく限られた客の注文に応じ、20世紀初頭のロシアの実業家アレクサンドル・ケルヒには7個シリーズを納めた。
国外に散逸

ロシア革命が起き、軍に囚われたアレクサンドラ皇后の持ち物はペトログラードの宮殿に残され、ボルシェビキの逮捕を免れたマリア皇太后はイースター・エッグをひそかに持ち出した[8]ロマノフ朝の宮殿は荒らされて皇帝の持ち物や貴金属品は略奪に遭うものの、黄金の卵はピーター・ファベルジェの息子アガトン・ファベルジェに獄中で見積もらせた金額では買い手が付かず、数百ドルで換金されたと伝わっている[8]レーニンは宮殿に残った皇室の宝物を守ろうと、ペトログラードからモスクワのクレムリン武器宮殿に移送させる。革命成立のおよそ1年後、ボリシェヴィキがファベルジェ商会を国有化した。

ヨシフ・スターリンは、外貨獲得の手段として1927年からいくつものエッグを競売にかけさせる[8]。1930年と1933年には14点のインペリアル・イースター・エッグがソビエト連邦から流出、そのとき父を介してレーニンと人脈のあったアメリカの実業家アーマンド・ハマー[注釈 2]がまとめて買い付けた (#リリアン・トマス・プラットの項を参照) 。ほかにも宝石商ウォルツキから派遣されたエマヌエル・スノーマン(英語)も競り落として国外に持ち出している。ウォルツキ(英語)はやがてロンドン随一の宝石商に成長し、ロシア革命から100年近く行方不明だった「3番目の卵」(1887年製) (英語)がアメリカで再発見された2014年、これを買い取り、個人コレクションに仲介している[9]。皇室から動乱期に流出したイースター・エッグのうち7点は行方がわかっていないが、1889年製の「小物入れ」(英語)、「デンマーク王国祝祭」(1903年製)(英語) と「亡きアレクサンドル3世をしのんで」(1909年製) (英語)の3点は写真が残っている。
アメリカの5大コレクターカフカス (皇后マリアへ、1893年)ツァレーヴィチ、または皇太子アレクセイ (皇后アレクサンドラへ、1912年)

アメリカのコレクターは1920年代から現われ始め、中でも財力と人脈によりコレクションを築いた屈指の蒐集家が5人いる。
リリアン・プラット

バージニア州出身で皇帝のイースター・エッグ5点を所蔵したリリアン・トマス=プラット(英語)は、ゼネラルモーターズ重役ジョン・プラット(英語)の妻でたいへん富裕だった。ファベルジェの卵を持つきっかけは1920代に知人の富豪アーマンド・ハマーに勧められたからで、ニューヨークの骨董商ラ・ヴィエイユ・ルシー(英語)を介して入手した5点とは「水晶 (回転するミニチュア絵画)」、「ペリカン」、「 ピョートル大帝」、「ツァレーヴィチ (皇太子アレクセイ)」、「皇族の肖像と赤十字」である[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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