ファベルジェ商会はロシア革命までの時期にチャーチル夫人 (1902年) やロスチャイルドのパリ分家ロチルド家(1902年)、ユスポフ家 (1907年)、ノーベル家 (1914年) と、ごく限られた客の注文に応じ、20世紀初頭のロシアの実業家アレクサンドル・ケルヒには7個シリーズを納めた。 ロシア革命が起き、軍に囚われたアレクサンドラ皇后の持ち物はペトログラードの宮殿に残され、ボルシェビキの逮捕を免れたマリア皇太后はイースター・エッグをひそかに持ち出した[8]。ロマノフ朝の宮殿は荒らされて皇帝の持ち物や貴金属品は略奪に遭うものの、黄金の卵はピーター・ファベルジェの息子アガトン・ファベルジェに獄中で見積もらせた金額では買い手が付かず、数百ドルで換金されたと伝わっている[8]。レーニンは宮殿に残った皇室の宝物を守ろうと、ペトログラードからモスクワのクレムリン武器宮殿に移送させる。革命成立のおよそ1年後、ボリシェヴィキがファベルジェ商会を国有化した。 ヨシフ・スターリンは、外貨獲得の手段として1927年からいくつものエッグを競売にかけさせる[8]。1930年と1933年には14点のインペリアル・イースター・エッグがソビエト連邦から流出、そのとき父を介してレーニンと人脈のあったアメリカの実業家アーマンド・ハマー[注釈 2]がまとめて買い付けた (#リリアン・トマス・プラットの項を参照) 。ほかにも宝石商ウォルツキから派遣されたエマヌエル・スノーマン
国外に散逸
アメリカの5大コレクターカフカス (皇后マリアへ、1893年)ツァレーヴィチ、または皇太子アレクセイ (皇后アレクサンドラへ、1912年)
アメリカのコレクターは1920年代から現われ始め、中でも財力と人脈によりコレクションを築いた屈指の蒐集家が5人いる。 バージニア州出身で皇帝のイースター・エッグ5点を所蔵したリリアン・トマス=プラット
リリアン・プラット