以下、当時のタイトー社員の体験談なども含む。
販売当初の価格は最盛期には数百万円に跳ね上がっても売れていったという。
タイトー本社は当時、東京の平河町(砂防会館の真前)にあり、永田町と近隣であった。そのため、『スペースインベーダー』の納入を切望する業者から依頼された国会議員が、「5000万円で売れ!」などとお忍びで談判に来た、というエピソードもあった[32]。
当時タイトー新入社員のボーナスが100万円だったという都市伝説があるが、当時はゲーム開発者への報奨金は確立されておらず、開発者の西角は社長賞として約10万円を表彰台で貰っただけだったという[33]。
集金袋を回収するのにライトバンでは間に合わず、4トントラックで回収を行っていた。しかしその4トントラックですら板バネサスペンションが100円玉の重みに耐えきれずに曲がる事故が頻発していた。
これに派生する都市伝説として、トラックから機械や硬貨を上げ下げすることから重迫病を患う者が続出したため、タイトーが三菱ふそうに相談してトラックの後部に装着する電動リフトを日本で最初に発明した(ないしはタイトーは「今後の世の中への貢献」を理由にこれについての特許などを取得していない)といったものがある[要出典]が、パワーゲートはスペースインベーダー店頭公開される14年前の1964年に極東開発工業が開発したものであるため、明らかに誤りである。
人々が熱中した結果、パチンコ業界は全国的に客の入りが悪くなった。パチンコ台メーカーは苦肉の策で、インベーダーゲームをモチーフにした台を販売したが人気は得られず、客入りは衰えたままで、冬の時代を迎え、パチンコ屋とゲームセンターを兼業、またはゲームセンターへの転業も多く見られた。この状況は打倒インベーダーを目指して開発された、1980年のフィーバーの登場まで続くこととなった
画面への照明の「うつりこみ」を防止するために店内が暗くされる傾向があったため、薄暗い店内は不健全であり、非行の温床になるとの考えから、多くの学校でゲームセンターへの入場禁止の通達を出す措置が講じられた[34][注釈 9][注釈 10]。
当時アメリカ合衆国のカリフォルニア大学バークレー校の学生だった孫正義は、日本でのブームが過ぎた頃、日本で余剰となったゲーム機をアメリカに持ち込んで現地のレストラン等にリースするビジネスを始めた。孫が持ち込んだゲーム機は合計350台、半年間で1億円を超える儲けを得た[35]。
ブームの終焉およびブーム後
インベーダーブームが徐々に社会問題化するに至り、当時のアミューズメント業界による業界団体「全日本遊園協会(JAA)」は、1979年6月2日に「自粛宣言」を発表する[36]。これは、あくまで未成年者には深夜に遊ばせないなど、常識的な範疇における自主規制に他ならないものであった。しかしながら、これが世間へ業者による自粛という印象を与える結果となり、ブームを急速に終わらせる原因ともなった[37]。当時はマスコミなども加熱するブームに対して警鐘を鳴らす論調となり、ゲームに対するイメージの低下やゲームセンターが不良少年のたまり場となったことが報道されるようになった[28]。これらの影響もありブームは急速に縮小し、各メーカーは大量の在庫を抱える事となった[28]。
1979年6月11日、警察庁はゲーム代欲しさに恐喝や強盗などを働く少年非行が増加していること、違法と知りながら景品を出す業者などが目に余るとして、ゲーム機がある場所での補導強化、悪質業者の摘発などを都道府県警に通達した[38]。
インベーダーゲームと同等のクォリティのゲームを家庭でプレイしたいという欲求が、今で言うところの「第一次パソコンブーム」の火付け役になった。
これに派生し、テレビゲームのようなゲーム要素を遊びたいというニーズにより、LSIゲームやゲーム&ウオッチに代表される携帯ゲームなどの玩具製品のヒットにもつながった。