インド
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

核保有国そして地域大国であり、2016年以降はモンゴルの人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1000人〈2017年〉)[10] を保有し、軍事支出は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった[11]
名称詳細は「インドの国名(英語版)」を参照

インド憲法によれば正式名称はヒンディー語の????(ラテン文字転写: Bh?rat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である[12]。政体名を付け加えたヒンディー語の ???? ???????(ラテン文字転写: Bh?rat Ga?ar?jya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。

バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する[要出典]。

英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hindu?を古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した[13]。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ大陸東海岸をも India と呼ぶことがあった[14]

「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える[誰によって?]。2023年のG20サミットでは、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した[15][16]

イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』)または天竺(『後漢書』)のような漢字で音訳した[17]。ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする[18]。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている[18]。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺と呼ばれた[19][20]。明治期以後、日本では印度または印度をカタカナ書きした「インド」が使われるようになった[21]
国旗詳細は「インドの国旗」を参照

1931年インド国民議会が定めた3色旗を基にしたデザイン。トップのサフラン(オレンジ)色はヒンドゥー教を、または勇気犠牲を意味する。緑色イスラム教を、平和真理を意味し両宗教の和合を表している。近年では宗派を連想させることを避けるため、それぞれ勇気、豊穣、平和という意味が付与された。中央には、アショカ王の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪)がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている[22]
歴史詳細は「インドの歴史」および「南アジア史」を参照
ヴェーダ時代からラージプート時代までナーランダ僧院跡(ナーランダ大学)

紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年ごろにインド・アーリア人トリツ族バラタ族プール族など)がパンジャーブ地方に移住。のちにガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。

インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(????)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: ???? ???????, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。

前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年ごろに始まったアケメネス朝ダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブシンドガンダーラを失った。前5世紀に釈迦仏教を説いた。紀元前330年ごろ、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いポロス率いるパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役)。紀元前317年チャンドラグプタによってパータリプトラサンスクリット: ???????????、現・パトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年ごろにディアドコイ戦争中のセレウコス朝セレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年ごろ、カリンガ戦争カリンガ国(現・オリッサ州)を併合。このころ、初期仏教の根本分裂が起こった。紀元前232年ごろ、マウリヤ朝3代目のアショーカ王が死去するとマウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。

ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原サータヴァーハナ朝ローマ帝国との季節風交易で繁栄した(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原でカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアクタイ王国タルマヌガラ王国に影響を及ぼした。

これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟エローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達した。仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年ごろに滅亡した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:373 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef