インド国民会議
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設立当初のメンバーは、教育を受けた中間層エリート、産業界の代表らから成り、大衆にまで広く浸透していた団体とはいえなかったが、一貫して「民族的団結の強調」「英国による対印抑圧政治の批判」「民衆の貧困」を強調したことは、民族運動初期のインド大衆世論の形成に大きな役割を果たした。
国民会議カルカッタ大会

1905年、インド総督カーゾンによって定められたベンガル分割令(カーゾン法)は、反英抵抗運動の分断を図るものとみなされた。これに対し、1906年にカルカッタ(現・コルカタ)で開催された国民会議で、急進派の主導によってカルカッタ大会4綱領が採択された。内容は英貨排斥(イギリス商品のボイコット)、スワデーシー(国産品愛用)、スワラージ(自治・独立)、民族教育の4つであった。しかし、カルカッタ大会の後に、穏健派と急進派は分裂状態となった。当時の急進派の中心人物であったティラクが投獄されたこともあり、再び国民会議は穏健派主導となった。
第一次大戦後の国民会議マハトマ・ガンディー(1929年)

第一次世界大戦後にマハトマ・ガンディージャワハルラール・ネルーチャンドラ・ボースらが加わり、インド独立に大きな役割を果たした。1915年南アフリカ連邦から帰国してから地方の闘争で成果をあげていたガンディーは、独自の指導でネルーらの左派パテルらの右派に分裂していた国民会議を統一した。1919年アムリットサル事件ののち、1920年にはガンディーの「非暴力」(「無抵抗」ではなく「市民的不服従」の意味)を綱領として採択し、地方組織を強化して本格的な政党となった。国民会議が展開した非暴力の運動の中ではとりわけ、1930年にガンディーの指導で展開された塩の行進が有名である。
インドの独立とネルージャワハルラール・ネルー(1959年)

1947年8月にインドがパキスタンと分離して独立すると国民会議は議会政党として与党となった。ネルーが首相となり、政治的には左右両派を内包した包括政党としての地位を背景に一党優位体制「コングレスシステム」と政教分離主義(セキュラリズム、世俗主義)を、経済的には社会主義型の開発を、国際的には反米親ソの非同盟中立外交を展開した。以後、ネルーが1964年に現職首相のまま死去するまで同党を基盤に強大な権力を振るった。ネルーの後はラール・バハードゥル・シャーストリーが首相となった。
インディラ・ガンディー時代

その後、1966年のシャーストリーの死去後、今度はネルーの娘であるインディラ・ガンディーが首相に就任した。インディラは「シンジケート」といわれた長老グループや党内右派を強力なリーダーシップで排除。1971年には第三次印パ戦争の勝利でインディラ時代は絶頂を迎えた。

しかし彼女自身の選挙違反事件に対して1975年、非常事態(英語版)を宣言し反対勢力を強権で排除、野党弾圧したことに対して批判が集まり、1977年ローク・サバー下院)総選挙で急きょ結成されたジャナタ党に大敗。インディラ自身も落選し、国民会議は独立から独占してきた政権を初めて失うこととなった。

その後の1980年の総選挙ではジャナタ党が分裂・崩壊状態にあったため国民会議は政権に復帰。インディラも首相に返り咲き、以後1984年暗殺されるまで彼女の政権が続いた。
ネルー・ガンディー王朝ラジーヴ・ガンディー(スケッチ)

インディラの暗殺後、首相となったのはインディラの長男ラジーヴ・ガンディーだった。


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