インド・ヨーロッパ語族
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

学問的な探求と明確に区別しがたい面がありながらも、ある種の思想に基づいた主張を喚起し、またしばしば政治的に利用される[31]

その典型的な例に、アーリアン学説がある。アーリア人は『リグ・ヴェーダ』や『アヴェスター』の著者たちの自称に由来し、インド・イラン語派以外に用いられるものではなかった。しかしエキゾチックな魅力を持つ言葉として、本来の範囲を超える意味でヴィクトリア朝時代の社交界には既に広まっていた[31]。『リグ・ヴェーダ』を翻訳したマックス・ミュラーは、インドに進入したサンスクリットの話者たちを、「高貴さ」を意味する彼らの自称から「アーリア人」と呼ぶべきと主張した。ミュラーの議論には根拠が乏しく後年になり撤回したが、文明の祖という幻想的なイメージを形作った。彼によって、言語学的な問いから、ヨーロッパ文明の起源についての問いに変質する先鞭がつけられたとされる[32]。ミュラーの影響を受けた典型例に挙げられるフランスの作家、アルテュール・ド・ゴビノーの『人種不平等論』(1853-1855年)は、人類を黒色・黄色・白色に大別し、白色人種に属するという「アーリア人」の文明性を謳った[32]。マディソン・グラント(英語版)の『偉大な人種の消滅』(1916年)では、イギリス系かドイツ系のアメリカ人という意味で「アーリア人」を用い、ユダヤ人のほかにポーランド、チェコ、イタリア系の移民との混血を警告した[31]。こうした欧米の思想の潮流の中で、ゴビノーのアーリア人種至上主義がヒューストン・ステュアート・チェンバレンの『十九世紀の基礎』(1899年)や神秘思想家のヘレナ・P・ブラヴァツキーによって受け継がれた。チェンバレンの人種至上主義とブラヴァツキーの神智学には距離があったが、ドイツやオーストリアでそれぞれが受容されるにつれて結びついていき、「アリオゾフィ(英語版)」と呼ばれるアーリア人種至上主義を神智学によって解釈する思想が生まれた。アリオゾフィはナチズムの源流の一つとなって「アーリア=ゲルマン人種」といったイデオロギーに結実することになった[32]

1990年代以降、ヒンドゥー・ナショナリズムのサンスクリットを称揚する言説の中でインド起源説が唱えられている。長田によれば、マックス・ミューラー以降の「アーリヤ人侵入説」の問題点は、ジム・シェーファー、レイモンド・オールチン(英語版)、アスコ・パルボラ(英語版)らによって学問的に批判されてきたほかに、ミューラーの直後からヒンドゥー改革者らによって宗教的な解釈に基づく批判も受けてきた。これらを受けて、デイヴィッド・フローリーとナヴァラトナ・ラージャーラーム(英語版)以降のヒンドゥー・ナショナリストたちは、著作の中で反アーリヤ人侵入説と並んで「印欧祖語=サンスクリット語、インド由来」論を展開している。長田は発端となったラージャーラームの主張を分析し、学問的な批判に耐えるものではないと結論づけている[33]

現実的な歴史観にそぐわない政治利用の例は他にもあり、アンソニーは例としてアメリカの白人至上主義、女神運動(英語版)、ロシアのナショナリズム・ネオペイガニズムを挙げている[31]
関連する学問分野の拡大

二十世紀に入って先史時代を扱う考古学が発達すると、言語学のみならず考古学の立場からも研究されるようになった。考古学を応用した初期の研究にグスタフ・コッシナ(英語版)による1902年のものがある[34]が、彼は始めから原郷がドイツにあると示す目的意識を持っていて、ナチスに政治利用されたことから原郷問題がタブー化した[31][5]ギンブタスの肖像

原郷問題が考古学の研究分野として復活したのは、1950年代のマリヤ・ギンブタスによるクルガン仮説の提唱に始まるとされる。黒海ステップの前4000年以降の銅器時代の文化を、当該地域に特有に見られる墳丘墓の名前からクルガン文化と呼ぶ。クルガン仮説によれば、黒海北方のステップの遊牧民が印欧祖語の話者で、彼らはを家畜化すると前3600 - 2300年ごろにクルガン文化(の中のヤムナヤ文化)とともに印欧祖語を広めた。ジム・マロリー(英語版)やデイヴィッド・アンソニー(英語版)がこれに追随し、アンソニーはステップでの馬の家畜化と乗用の起源を示すことで説の補強を試みた[5]

1987年にイギリスのコリン・レンフルーアナトリア仮説を提出した。印欧祖族の故郷はアナトリア半島にあり、中央ギリシアに最初の農業経済を起こしてから前6500年以降に拡散したという、農業経済を軸にした提案だった。古代ギリシア語がヒッタイト語よりもサンスクリット語にはるかに類似しているという事実を説明できておらず、当時の社会に馬の存在はなかったとの主張は印欧祖語に馬の語彙が再建されることから退けられる[35]など、レンフルーの主張は既存の言語学の立場からはとくに懐疑視された[5]

生物学者のラッセル・グレイ(英語版)とクエンティン・アトキンソンは、計算生物学の手法を用いた研究を2003年に発表した。言語年代学を改良して統計的に単語の類似を分析した結果、印欧祖語が各言語に分岐した年代は前6000年以前であると示され、アナトリア仮説を擁護した[5]

アンソニーは、90年代以降の考古学を踏まえた研究を2007年の著作『馬・車輪・言語』に発表した。ポントス・カスピ海ステップを原郷においた印欧語の拡散の過程を描くことで、クルガン仮説を修正・補強してアナトリア仮説への反論を試みた[36][37]

言語学者のアンドリュー・ギャレット(英語版)らは、2013年以降の研究で、解析を条件を変えて行うと分岐年代がグレイらより遅くに想定されるとしてグレイらが設定する前提を批判した。Balterによれば、グレイらはギャレットらの研究を継承した解析に取り組み、再びアナトリア仮説を支持する結果を得たという[5]

レンフルーは、1994年に亡くなったギンブタスを記念する2017年の講演の中で、自説との両立を示唆しながらも“Marija’s Kurgan hypothesis has been magnificently vindicated.(マリヤのクルガン仮説は見事に立証された)”と発言しクルガン仮説を認めた[38]。レンフルーの業績を称える2018年の記事では、言語年代学以外の立場からはアナトリア仮説は認められていないと指摘している[39]
印欧語族の歴史.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年11月)

文法と簡略化

分化が始まった時点でのインド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)は、多様な語形変化を持つ言語だったと想定されている。しかし時代が下り、言語の分化が大きくなると、各言語は概して複雑な語形変化を単純化させていった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:229 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef