インド・ヨーロッパ語族
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ボップとラスクの著作は、比較言語学の第一作を争うものとして知られている。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルとフンボルトは、フリードリヒ・シュレーゲルの分類を発展させて屈折語孤立語膠着語抱合語という言語の四類型を立てた。グリムはラスクの論を受け継いでゲルマン祖語に起きた音韻法則であるグリムの法則を見出した[14]。また黎明期の研究を総括したアウグスト・シュライヒャーによって、印欧祖語を再建する初めての試みが1861年の『印欧諸語比較文法便覧』(Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen)で提出された[15][16][17]。重要な業績が残された一方で、音声学の視点を欠く不完全さがあったともされる[13][14]

ジョーンズはサンスクリット、ラテン語、ギリシア語を中心としてゴート語ケルト語古代ペルシア語の資料を用いていた。シュレーゲルはアルメニア語スラヴ語が語族に含まれることを示唆したが、確証はしなかった。語族の構成員を探る試みは主にボップによってなされ、1838年および1854年の講演ではケルト語とアルバニア語が帰属することを示した。彼の死後の1868年から1871年にかけて公刊された『比較文法』の第三版ではアルメニア語とスラヴ語が含まれることを示し、これによって死語となっていない語派の構成が確定した[18]

言語のグループを指す用語としてトマス・ヤングによる「インド・ヨーロッパ語」が1813年に提出された[注 3]。現代において、ドイツ語圏においてのみユリウス・ハインリヒ・クラプロートが1823年に提唱したインド・ゲルマン語という名称が用いられ(ドイツ語: Indogermanische Sprachen)、その他の言語ではインド・ヨーロッパ語に相当する呼称が用いられる[19][18]
学問体系の確立「青年文法学派」も参照

ゲオルク・クルツィウスは分化していた言語学と文献学の協調を要請した。クルティウスの弟子の世代にあたり、問題意識を引き継いだライプツィヒ大学に拠点を置く一連の学者らは1870年代以降に音韻論の実証的な研究を発表し、青年文法学派と呼ばれた。青年文法学派の実証を重んじる主張は「音法則に例外なし」に代表され、代表者のカール・ブルークマンの説がクルツィウスに受け入れられなかっただけでなく、ヨハネス・シュミットやアダルバート・ベッツェンベルガー(英語版)、ヘルマン・コーリッツ(英語版)らの批判を受け議論は紛糾した[20][21]ソシュールの肖像

ライプツィヒ大学に留学しており青年文法学派と交流があったフェルディナン・ド・ソシュールが1878年に提出した論文『印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き』は、印欧語の母音組織と母音交替を統一的に説明する画期的な学説であった[22]。母音交替を説明するために、音声的に正体不明の「ソナント的機能音」を建てる理論的仮説だったが[23]、実証を重んじる青年文法学派の奉じる原理と衝突し受け入れられなかった。

結果的に1870年代前後を通じて、ジョーンズの指摘を受けた研究はドイツロマン主義の隆盛と相まってドイツで盛んとなった[24][25]
死語の研究による語族の拡大「喉音理論」も参照

19世紀末以降の調査によって、タリム盆地で発見された複数の文書の中に正体不明のものがあり、1908年に解読されてトカラ語と名付けられた言語は、印欧語族に含まれることが示された。20世紀に入ると、小アジアで用いられ紀元前に死語となった未知の言語が碑文から研究され、ヒッタイト語と名付けられた。ヒッタイト語は、1915年以降に発表された研究で印欧語族に含まれるか、少なくとも類縁関係にあることが明らかになった[26]イェジ・クリウォヴィチは、解読されたヒッタイト語の喉音がソシュールの言うソナント音に対応していることを指摘した上で理論を発展させ、これ以降の研究によって喉音理論が成立した[23]
原郷問題

インド・ヨーロッパ語族や、あるいは話者のグループの原郷について現代にはクルガン仮説が中心的な説となっているが、これに至るまでに議論の歴史がある。言語学から探求された時代には、印欧諸語の語彙を突き合わせ印欧祖語の語彙を挙げ、その特徴から地域を特定しようとする方法が取られた。考古学の発達につれ、こうした手法に加え、集団の移動や、耕作・家畜・道具の発展を実証的に探求できるようになった。
言語学からの探求

原郷問題についてまとまった著作をはじめて発表したのはアドルフ・ピクテ(英語版)であった。風間によれば、当時は研究の黎明期にあってインド学が充実しておらず、ピクテはサンスクリットがあらゆる点で古い形を保っていると誤解していた。風間によればこうしたアジアを理想化する偏った見方はピクテに限らず先に触れたシュレーゲルなど十九世紀前半に著しく見られるといい、ピクテは原郷として古代のバクトリアにあたるアムダリア川中流域を想定して東方説(アジア説)の端緒となった[27]

アジア説を批判してヨーロッパ説を導入した初期の代表的な人物に、サンスクリットを専門とするテーオドール・ベンファイがいる。ベンファイは、印欧諸語でライオン(あるいは大型肉食獣)を指す言葉がそれぞれ独立していて共通の語源を想定できないことを論拠にライオンの生息域を排したが、こじつけた感があり当時から注目を受けなかった[28]。現代においては、ヨーロッパがライオンの生息域であった可能性[29]と、印欧祖語の語彙にライオンが含まれているとする主張[注 4]の両方から批判を受ける形となり、成立しない議論と考えられている。
政治利用「アーリアン学説」および「ヒンドゥー・ナショナリズム」も参照

インドやイランなどアジアの言語とヨーロッパの言語が共通の祖先を持つという概念は、特にその話者にとってセンセーショナルに捉えられうる。学問的な探求と明確に区別しがたい面がありながらも、ある種の思想に基づいた主張を喚起し、またしばしば政治的に利用される[31]

その典型的な例に、アーリアン学説がある。アーリア人は『リグ・ヴェーダ』や『アヴェスター』の著者たちの自称に由来し、インド・イラン語派以外に用いられるものではなかった。しかしエキゾチックな魅力を持つ言葉として、本来の範囲を超える意味でヴィクトリア朝時代の社交界には既に広まっていた[31]。『リグ・ヴェーダ』を翻訳したマックス・ミュラーは、インドに進入したサンスクリットの話者たちを、「高貴さ」を意味する彼らの自称から「アーリア人」と呼ぶべきと主張した。ミュラーの議論には根拠が乏しく後年になり撤回したが、文明の祖という幻想的なイメージを形作った。彼によって、言語学的な問いから、ヨーロッパ文明の起源についての問いに変質する先鞭がつけられたとされる[32]


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