インド・パキスタン分離独立
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このため、西のパンジャーブ地方と東のベンガル地方はそれぞれインド・パキスタン両国に分割され、パンジャーブ地方はパンジャーブ州 (パキスタン)パンジャーブ州 (インド)(後にそこからさらにハリヤーナー州ヒマーチャル・プラデーシュ州チャンディーガルが分割される)に、ベンガル地方は東パキスタン西ベンガル州に分割されることとなった。この地理的分割の作業は、それまでインドに縁がなかった[4]イギリス首都ロンドン法廷弁護士(バリスター)シリル・ラドクリフ(Cyril Radcliffe)にゆだねられ、このため分割線(分離独立後はそのままインド=パキスタン国境となる)はラドクリフ・ライン(Radcliffe Line)と呼ばれるようになった。なお、この分割線は独立当日まで公表されなかった。

ベンガルでは1905年ベンガル分割令に近い形での分離がなされた(en)が、パンジャーブでは分割の経験がなかったため、混乱はより大きくなった。パンジャーブで鉄道車両からあふれる難民暴動を調停するガンディー鉄道車両に満載される難民
大混乱、衝突、そして虐殺

そして両地方ではヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒(およびパンジャーブではシク教徒)はヒンドゥー教徒地域へ、それぞれ強制的な移動・流入による難民化を余儀なくされた。

イスラム法には、異教徒の支配下にあり、宣教とジハードによる状況の打開が当面不可能な場合、イスラム教徒が支配する領域に移住すべきという思想がある。その思想に基づき、イスラム教徒の間で「ムハージルーン運動」と呼ばれる移住運動が展開された。

インド政府調査による移住者数は、パキスタンからインドへが約840万人、インドから東西パキスタンへは約715万人だった[1]。短期間での大量の人口移動によって生じた大混乱のため、特にパンジャーブ地方では両教徒間に数え切れないほどの衝突と暴動虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火。一説によると死者数は100万人に達したとされる[1]。このとき生じた両者の不信感そして憎悪が印パ関係の後々まで影響することとなる。一方でカルカッタではガンディーの尽力により虐殺が抑えられた。
結果

パキスタンの独立は8月14日に、そしてインドの独立は8月15日に行われた[1]。ジンナーがパキスタンの総督となり、またジャワハルラール・ネルーが新生独立インドの首相となった。しかし、そこに至る道、およびその後の両国が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。独立の日のデリーのラール・キラー
大都市スラムの発生

保守的なイギリス人にとって、この事件はかつてのインド総督カーゾン卿が予言したとおりの、大英帝国の没落の現実化であった。またインドに逃げ込んだヒンドゥー教徒およびシク教徒難民はデリーボンベイカルカッタに、東西パキスタンに逃れたムスリム難民はカラチラホールダッカといった両国の大都市において巨大なスラムを生み、両国に膨大な都市貧困層を生じさせて社会の不安定要因となった。
ガンディーの暗殺

ヒンドゥー、イスラム両教徒の相互不信は、両者の融和を説いたガンディーに対する反発[注釈 2]を生むこととなった。特に民族義勇団などのヒンドゥー・ナショナリストからはイスラム教徒やパキスタン側に対して譲歩しすぎるとして敵対視された。その結果、翌1948年1月30日、ガンディーは狂信的なヒンドゥー・ナショナリストによってデリーで暗殺される結果を招いた。非暴力を説いたガンディーが暴力の連鎖を止められず、自らもその中に倒れたことは悲劇の象徴として捉えられた。インド・パキスタン間の難民(動画)
印パ戦争から核開発へ

また多くの藩王国はインド側の副首相ヴァッラブバーイー・パテールの巧みな交渉もありインドに帰属したが、大藩王国のニザーム藩王国ジャンムー・カシミール藩王国はその態度を最後まで決めかねており、1948年9月にインドはニザーム藩王国を強制併合した。ジャンムー・カシミール藩王国においてはその帰属をめぐって第一次印パ戦争が発生した。

そして、パキスタンは東西に分かれた領土を持つこととなり、国家として不安定な状況を生むこととなった。これは最終的にバングラデシュ独立戦争第三次印パ戦争を経て東パキスタンがバングラデシュとして独立するまで続くこととなる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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