インドネシア
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同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した[21]。そして日本の統治は、オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立て実施された[22]。スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが、開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑み、オランダの善意に期待できない以上、日本に賭けて見ようと考えたのであった[22]

教育制度に関して日本は、オランダが長年行ってきた愚民化政策を取りやめ、現地の人々に高等教育を施し、官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを次々開設して、短期間に10万人以上の現地人エリートを養成した[13]

1943年中盤以降、日本はアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した[23]。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下の全将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ、PETA)が発足した。郷土防衛義勇軍は義勇軍士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校が養成され、兵補と警察隊も編成された[13]。このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後のインドネシア独立戦争期に結成される正規・非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった[23]

インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、日本は1944年9月3日には将来の独立を認容する『小磯声明』を発表。さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日日本が降伏したことによって[24]、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。
独立戦争[ソースを編集]インドネシア人により使用された旧日本軍の軽戦車米国製でオランダ軍よりの鹵獲品)詳細は「インドネシア独立宣言」および「インドネシア独立戦争」を参照

しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地でインドネシア独立宣言を発表した。独立宣言文の日付は皇紀を用いている。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、必ずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。

独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、日本の連合国軍への降伏後に多数の経験豊かな日本の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加して武装化した[13]。彼らは連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部で、インドネシア側に武器や弾薬を提供した[13]。これらの銃器の他にも、刀剣竹槍棍棒毒矢などを調達し、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人軍属)も加わって最前列に立ってオランダと戦い(残留日本兵#蘭印(インドネシア))、その結果1,000人が命を落とした。しかしながら、インドネシアに数百年来住む華僑(中国人)の大部分はオランダ側に加担してインドネシア軍に銃を向けた[13]

他方で政府は第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣して独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。結果として、1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。

独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。
独立承認[ソースを編集]詳細は「ハーグ円卓会議」を参照

こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のオランダ-インドネシア円卓会議通称、ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認を得ることに成功し、オランダ統治時代の資産を継承した。これによって国際法上、正式に独立が承認された。

しかし、この資産には60億ギルダーという膨大な対外債務(うちオランダ向け債務20億ギルダーについては、オランダが債務免除に同意した)も含まれており、財政的な苦境に立たされることとなる。その解決のために円卓会議の取り決めを一方的に破棄、外国資産の強制収容を行うなど強攻策をとり、さらには国連から脱退するなどスカルノ政権崩壊まで国際的な孤立を深めていくこととなる。

現在でも8月17日を独立記念日としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。
スカルノ時代[ソースを編集]インドネシア初代大統領スカルノ

オランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた。1955年に初の議会総選挙を実施、1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。国民党マシュミNUの3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、インドネシア共産党は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、西イリアン帰属闘争、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。[25]

しかし、民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様で、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半に地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生し(ダルル・イスラム運動(英語版)、セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨの反乱、カハル・ムザカル(英語版)の反乱、プルメスタの反乱(英語版))、国家の分裂の危機に直面した。

この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノは全土に対し、戒厳令を出した[26]

スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍との反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期、盛んにスカルノが喧伝した「ナサコム (NASAKOM)」は、「ナショナリズム (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。1961年12月、オランダ植民地のイリアンジャヤに「西イリアン解放作戦」を決行して占領。1963年5月にインドネシアに併合されると、反政府勢力(自由パプア運動やen:National Committee for West Papua)によるパプア紛争1963年?現在)が勃発した。

1965年CONEFOに加盟した。

スカルノの「指導される民主主義」は、1965年9月30日事件によって終わりを告げた。インドネシア国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。


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