インドネシア
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南シナ海南部にあるインドネシア領ナトゥナ諸島インドシナ半島や領有権主張が競合するスプラトリー諸島と向かい合う[6]

東南アジア諸国連合 (ASEAN) の盟主とされ、ASEAN本部が首都ジャカルタにある[7]。そのため、2009年以降はアメリカ中国など50か国あまりのASEAN大使がジャカルタに常駐しており、日本2011年よりジャカルタにASEAN日本政府代表部を開設し、大使を常駐させている。東南アジアから唯一G20に参加している[8]

人口は2億7000万人を超える世界第4位の規模であり、また世界最大のムスリム人口を有する[9]国家としても知られている。国の公用語インドネシア語である。
国名

正式名称は Republik Indonesia (インドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: エール・イー)。

公式の英語表記はRepublic of Indonesia、略称は Indonesia ([??ndo??ni?zi?] または [??nd??ni???])。

日本語表記はインドネシア共和国、略称はインドネシア。漢字表記は印度尼西亜、略称は印尼。

国名インドネシア(Indonesia)のネシア(nesia)は諸島を意味する接尾辞ギリシャ語を意味するネソス (nesos) の複数形ネシオイ (nesioi) に由来する。オランダ領東インド時代の1920年代に定着した。
国旗

インドネシアの国旗は上部に、下部にの2色で構成された長方形で、縦と横の比率が2:3である。モナコ公国国旗と類似しているが、こちらは縦横比が4:5と異なる。

国章は、「ガルーダ・パンチャシラ」と呼ばれる。ガルーダインド神話に登場する伝説上の鳥で[10]ヴィシュヌ神の乗り物と言われる。のような図柄である。尾の付け根の羽毛は19枚、首の羽毛は45枚で、尾の羽毛は8枚、翼の羽毛は左右それぞれに17枚ずつあり、独立宣言をした1945年8月17日の数字を表している[11]
歴史詳細は「インドネシアの歴史」を参照

先史時代は、様々な出土品から石器時代と金属器時代の2つに大きく分けることができる。
石器時代

人類が使用する色々の道具を石器で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の4つに分けることができる[12]
王国時代海のシルクロードは、インドとインドネシアを接続した。

オーストロネシア人は後にインドネシアとなる地域に住み 、紀元前1世紀ごろから来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀ごろから王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国シャイレーンドラ朝古マタラム王国クディリ王国シンガサリ王国マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。
オランダ統治開始詳細は「オランダ領東インド」を参照18世紀バタヴィア

大航海時代16世紀になると、香辛料貿易の利を求めてヨーロッパポルトガルイギリス(英国)、オランダが相次いで来航。17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。

東インド会社により搾取され続けていたインドネシアであったが、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた[13]。また、一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止され、その禁止を破ると「反乱罪」で処罰された[13]。オランダは一部の現地人をキリスト教に改宗させ優遇することで彼らに間接統治させたり、搾取をする経済の流通は華僑に担わせたりしていた[13]

オランダ人は18世紀マタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀アチェ戦争によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島の全てがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。

ただし、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1795年にフランス革命戦争でフランス軍に占領されて滅亡。バタヴィア共和国(1795年-1806年)、ホラント王国(1806年-1810年)と政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。

1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズシンガポール地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発。1824年英蘭協約が締結され、オランダ領東インドの領域が確定した。

日本南進論の影響もあり、1925年には田邊宗英らの発起の三ツ引商事などがスラバヤへ進出している[14]
独立運動

オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。ジャワ島では、1908年5月20日ブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。

1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。この地の民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年スカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の『青年の誓い』である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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