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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 歴史学/東洋史モエンジョ・ダーロ遺跡
インドの歴史(インドのれきし、History of India)では、インダス文明以来のインドの歴史について略述する。
インダス・ガンジス文明
インダス文明インダス文明詳細は「インダス文明」を参照
紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あり、Iravatham Mahadevan
が紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説(Dravidian hypothesis、南インドのドラヴィダ系の民族)を提唱したが、ワシントン大学のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、フィンランドの研究者アスコ・パルボラ(英語版)が支持し、研究は振り出しに戻っている[1]。パンジャーブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、ウルを始めとしたメソポタミアの諸都市と交流していた[2]。
焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった[3]。この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、アハール・バナス文化(英語版) (Ahar-Banas culture)、マールワー文化(英語版) (Malava Kingdom, Malwa culture)、ジョールウェー文化(英語版) (Jorwe culture) などがその例として挙げられる。
これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となったギリシャ・サントリーニ島のミノア噴火)などが指摘されているが、インダス文字が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない[† 1]。
前期ヴェーダ時代カイバル峠詳細は「ヴェーダ」を参照
インド・アーリア人は、紀元前1500年前後に現在のアフガニスタン・バクトリアから北西インド(現在のパキスタン)に移住したと考えられているが[5]、インドの伝承では移動に関して何も記していない。『リグ・ヴェーダ』によれば、その後、バラタ族・トリツ族など諸部族の間で戦争が勃発した(十王戦争)。バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる[6]。
バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族のプール族の混血も進んでいった(クル族の誕生)。『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにヴェーダの宗教が初期バラモン教としてインド化していった。
後期ヴェーダ時代とガンジス文明
十六大国十六大国の位置詳細は「十六大国」を参照
紀元前1000年頃より、バラタ族はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。また、この時代に鉄器が導入された。鉄器による農耕技術の発展と、それに伴う余剰生産物の発生によって、徐々に商工業の発展も見られるようになった。農作物としては、それまで栽培されていた大麦に加え、ガンジス川流域では米が作られた。さらに、小麦の栽培も開始された[7]。
ヴェーダ祭式文化を拠り所とした社会は拡大を続け、現在の東インド、ビハール州にあたる地域にまで広がった[8]。一方で、ヴェーダ祭式文化の拡大は、旧来の政治勢力・伝統的祭式観の影響力低下をもたらした。北インドでは諸勢力が台頭し、十六大国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。『マハーバーラタ』によると、紀元前950年頃にクル族の子孫であるカウラヴァ王家が内部分裂し、クルクシェートラの戦い(英語版)でパンチャーラ国に敗北して衰退していった[9]。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた[10]。十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった[9]。十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝のダレイオス1世のインド遠征 (en:Iranian invasion of Indus Valley) によって支配されるようになり[11]、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。
ウパニシャッド哲学と新宗教詳細は「ウパニシャッド」、「仏教」、「ジャイナ教」、「枢軸時代」、および「六師外道」を参照