インドの歴史
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デリー・スルターン朝クトゥブ・ミナール(インド最古のミナレット、13世紀)詳細は「デリー・スルターン朝」を参照

いっぽう、ゴール朝のマムルークであったアイバクは、ゴール朝の軍とともに北インドにとどまり、1206年にデリーに都をおいて奴隷王朝を建てて自立した。これより約300年間、デリーを都としたムスリム5王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルターン朝と称する。

デリー・スルターン朝の5王朝、すなわち奴隷王朝、ハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ローディー朝の君主はいずれもスルターンの称号を用い、デリーに都を置いたため、デリー・スルターン朝と総称される。

5王朝は北インドをあいついで支配し、特に14世紀初頭のハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーと14世紀前半のトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルクの治世には、デカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。最後のローディー朝のみアフガン系であるが、他はいずれもトルコ系である。こうしたなか、ティムール軍が1398年にデリーに侵入している。

この時代の北インドでは、インド在来の社会組織を利用して統治する現実的な方法がとられ、イスラームへの改宗が強制されることはなかったが、イスラーム神秘主義者スーフィーの活動などもあって、都市を中心に徐々にイスラームが普及していった。
南インドのヒンドゥー諸王国詳細は「チョーラ朝」および「パーンディヤ朝」を参照

一方で南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のヒンドゥー王国チョーラ朝がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。チョーラ朝は12世紀末に再建されたパーンディヤ朝(後期パーンディヤ朝)によって13世紀後半に滅ぼされた。
ヴィジャヤナガル王国ハンピのヴィルーパークシャ寺院詳細は「ヴィジャヤナガル朝」を参照

その後、一時、北インドのデリー・スルターン朝の勢力が南下し、南インドの王朝は次々と滅ぼされたが、1336年ハリハラとブッカの兄弟がヴィジャヤナガル(ハンピ)に都にトゥグルク朝から独立した。

これ以降、14世紀前半から17世紀半ばにかけて、サンガマ朝(1336年 - 1486年)、サールヴァ朝(1486年 - 1505年)、トゥルヴァ朝(1505年 - 1569年)、アーラヴィードゥ朝(1569年 - 1649年)と4つのヒンドゥー王朝が繁栄し、これを総称してヴィジャヤナガル王国と呼んでいる。ここでは、北インドとは対照的にヒンドゥー文化の隆盛と爛熟がみられた。ハンピの都市遺跡などが当時の繁栄ぶりを今日に伝えている。

ヴィジャヤナガル王国はトゥルヴァ朝のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世に最盛期を迎えたが、その死後、1565年ターリコータの戦いでムスリム5王国に敗れ、衰退の道へと向かった。

しかし、アーラヴィードゥ朝のヴェンカタ2世は同国最後の名君であり、外敵と戦い、国の領土と勢力回復に尽力したが、1614年彼の死後に王国は瓦解した。
デカンの諸王国

北インドのイスラーム支配は14世紀にはデカン高原にもおよび、1347年トゥグルク朝の臣下であった地方長官が自立し、バフマニー朝を建国して、ムスリム政権を成立させた。

その後、バフマニー朝は2世紀近く存続したのち1527年に滅び、その領土にはベラール王国(イマード・シャーヒー朝)、ビーダル王国(バリード・シャーヒー朝)、アフマドナガル王国(ニザーム・シャーヒー朝)、ビジャープル王国(アーディル・シャーヒー朝)、ゴールコンダ王国(クトゥブ・シャーヒー朝)の5つの王国が割拠する形となり、これらはデカン・スルターン朝と呼ばれる。

デカン・スルターン朝は当初互いに他国と領土を争い、南のヴィジャヤナガル王国もこれらに関与したが、やがて5王国は同盟を結んで、1565年ターリコータの戦いで連合軍はヴィジャヤナガル王国の軍を破った。

しかし、その後は再び争うようになり、ベラール王国、ビーダル王国は他国に滅ぼされ、アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国はムガル帝国に滅ぼされた。
バクティ信仰とシク教の創始アムリトサルの黄金寺院詳細は「シク教」を参照

やがて北インドでは都市と商工業が発展し、ムスリム商人の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。イスラームの平等主義的な一神教の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心にバクティ信仰がひろまった。身分の低い人びとのあいだでイスラームに改宗する人も増えた。やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れをくむグル・ナーナクによってシク教が創始された。
ポルトガルとスペイン

1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。ゴア1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。

しかし、1580年スペイン王フェリペ2世によりポルトガルはスペインに併合され、その海上の覇権と領土はスペインに継承された。
ムガル帝国

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タージ・マハルアーグラ)詳細は「ムガル帝国」を参照

1526年から1858年までの332年間は、バーブル以来の王朝が統治するムガル帝国の時代であった。
ムガル帝国の成立と隆盛詳細は「バーブル」、「アクバル」、および「シャー・ジャハーン」を参照

16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブル北インドへ南下し、最後のデリー・スルターン朝であるローディー朝の君主イブラーヒーム・ローディーパーニーパットの戦い1526年)で破ってデリー入城を果たし、ムガル帝国を樹立した。

その孫にあたる3代皇帝のアクバルは、アフガニスタンから北インドにかけての広大な領域を支配してアーグラに都を遷し、アンベール王国の君主でヒンドゥー教徒のビハーリー・マルの娘と結婚し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒との融和を図るためにヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止するとともにザプト制という定額地租制度を導入して、帝国財政を安定させ、マンサブダーリー制を確立させて統治機構の整備にも努めた。アクバル治下のインド社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発におこなわれた。

17世紀前半の5代シャー・ジャハーンの時代に帝国はもっとも繁栄し、ムガル文化は最盛期をむかえ、アフマドナガル王国を滅ぼしその支配領域はデカン方面にもおよんだ。デリーに再遷都され、首都デリーには居城デリー城(赤い城)、旧都となったアーグラには亡き妻の霊廟タージ・マハルが建設された。

文化的には、宮廷でペルシア色の強いインド・イスラーム文化が発展した。当時のムガル絵画はイランのミニアチュール(細密画)の影響がみられるほか、宮廷内ではもっぱらペルシア語が使用され、ムガル帝国の代表的建築であるタージ・マハルも、イラン系技術者が多くかかわっていた。


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