この項目では、インデペンデント紙について説明しています。インデペンデントのその他の用法については「インディペンデント」をご覧ください。
The Independent種別日刊紙
所有者Independent News & Media社
編集者クリスチャン・ブロートン
インデペンデント紙(The Independent)はトニー・オライリー(英語版)の所有するインデペンデントニュース&メディア(英語版)社によって発行されているイギリスのオンライン新聞である。愛称はインディ(Indie)、日曜版はシンディ(Sindie)と呼ばれる。 政治的にどこにも属さないと主張している。2004年にブリティッシュ・プレス賞(英語版)の年間最優秀全国紙賞(National Newspaper of the Year)を受賞した。かつては紙面での発行も行っていたが、2016年3月をもって終了し、オンライン新聞に移行した[5]。
ウェブサイトとモバイルアプリを合わせた月間アクセス数は、2021年に19,826,000に達した[6]。2023年のドラム賞オンラインメディア部門でブランド・オブ・ザ・イヤーを受賞した[7]。
1997年にロシアのオリガルヒで元KGB将校のアレクサンドル・レベデフ(英語版、ロシア語版)に売却され2010年までレベデフが所有していた。レベデフはまた、2022年8月30日にミハイル・ゴルバチョフが亡くなるまで、ゴルバチョフとともにノーヴァヤ・ガゼータを共同所有していた[8]。 2017年、スルタン・ムハンマド・アブルジャダイエルがインディペンデント紙の株式30%を購入した[9]。 1986年10月7日、インデペンデント紙は、イギリスでもっとも新しい高級紙として、高級紙判(ブロードシート判)で創刊された[10][11]。 もはやかつての高級紙判でなく、紙の新聞としては発行されていないが、高級紙であることには変わりがない。 発行元はニュースペーパー・パブリッシング
歴史
1986年創刊
インデペンデント紙はイギリスの報道業界の重大な緊迫期に創刊された。当時、ルパード・マードックが長年の業界慣行を打破しようとして出版労組と闘争していた。この不穏な空気の中で、新興の同紙は、マードックの抱える高級紙・タイムズから、非常によい人材を獲得することが出来た。そうした人材の多くは、マードックがタイムズを含むニューズインターナショナルの印刷拠点をグレーズ・イン・ロードのニュープリンティングハウススクエアからワッピング(Wapping)地区に移した際に起きた、いわゆるワッピング争議などにより退職を選んだ人々であった。またインデペンデント紙は歴史が浅かったために、他紙よりも印刷業者とかなり良好な関係を持つことが出来た。
「本紙はそう(独立――Independent――している)です。あなたは?(It is. Are you?)」という広告文とともに登場し、ガーディアン紙とリベラル層の読者を求めて争った同紙は、1989年には40万以上の発行部数に到達することができた。停滞する新聞市場で読者獲得を競い合う中でのインデペンデント紙の出現は、紙面のデザインと内容の両面の刷新のみならず、損失を強いる「価格競争」の口火を切る要素の一つとなった。当時、新聞市場は非常に逼迫していたため、同紙が1990年に日曜版を創刊したときには、発行部数は期待を下回った。その結果として、日曜版の発行は大部分専属の編集部員によって続けられたが、一部内容は平日版に吸収されることになった。 1990年代になると、親会社であるニュースペーパーパブリッシング社が経営難に陥っていることが明らかになった。1980年代に創刊されたいくつかの他紙は、採算性を確保するに足る定期購読者層を確立することなく急速に破綻していったが、インデペンデント紙も同様の問題を抱えていた。そこで、ヨーロッパ大陸の2つのメディアグループが同社に少額の出資をした。他の多くのメディア企業も、多くの理由から、経営難にあえぐ同紙のより完全な経営権を取得することに関心を持っていた。 トニーが所有するメディアグループであるインデペンデントニュース&メディア(Independent News&Media/IMN)とミラーグループニュースペーパーズ(Mirror Group Newspapers/MGN)の両者は、1994年半ばまでに同社に多額の出資を実施した。また1995年3月に、ニュースペーパーパブリッシング社は、株主割当発行により、O'Reilly(43%)、MGN(43%)、プリザ(Prisa/スペインEl Pais紙の発行元、 12%)の3社に自社株分割を行い、経営が再建された。 1996年4月、さらに財政整理が行われ、1998年3月、O'Reillyは3000万ポンドでNeニュースペーパーパブリッシング社の残りの54%の株式を取得し、債務を承継した。ブランデン・ホプキンス(Brendan Hopkins)が、インデペンデントニュース&メディア(Independent News&Media)の代表となり、アンドリュー・マー(Andrew Marr)がインデペンデント紙、ロージー・ボイコット(Rosie Boycott)が日曜版の編集長に任命された。マーは短命だったものの劇的なデザイン変更を取り入れ、幾ばくか重要な支持を得たが、販促予算が限られていたこともあり、商業的には大部分が失敗であった。マーはのちに、半自伝的著作「我が職業(My Trade)」の中で、これらの改革は無謀であったと認めている。 ボイコットは1998年4月に退職してデイリー・エクスプレス(The Daily Express)紙へ移籍、マーも1998年5月に後に続き(後にBBCに移籍して政治部部長となった)、シモン・ケルナー(Simon Kelner)が新編集長となった。このときまでに同紙の発行部数は20万部以下にまで落ち込んでいた。インデペンデントニュース&メディアは発行部数改善のために多額の支出を行い、同紙は多くのデザイン変更を実施した。発行部数は改善したものの1989年の部数には届かず、黒字にも戻らなかったため、解雇と緊縮財政が行われ、記者たちも離れてゆき、社内の士気も低下した。2002年7月、かつてはサンデー・タイムズ(Sunday Times)紙の重要人物で、1995年からインデペンデントニュース&メディアの取締役であったイヴァン・ファロン(Ivan Fallon)が、ホプキンスの後任として代表となった。
財政問題