アイデア会議の際、4人はカルトな要素を観客へどう魅せるか熱心に話したという。ハイクとカッツはこれに虎狩りを使うことを提案したが、スピルバーグの「虎狩りをするほど長くインドに滞在するつもりはない」との言葉で却下。彼らは最終的に、虫やサルの脳みそなどを食べる夕食のシーンを作ることを決定した。カッツは後に「スティーブとジョージは子供のようで、いかにグロテスクな場面を作ろうかと考えていた」と述べている[24]。
1982年5月、ルーカスは、ハイクとカッツへ脚本に採用するようにと20ページの草稿を手渡した[17]。これは、トロッコの追跡や上海への旅、銃撃から身を守るためにゴングを使用するインディなど、前作でカットされた脚本内容を取り入れたものだった。その後もルーカスは、「脚本作成に役立つように」とテープに録音された会話を基にした500ページの草稿をハイクとカッツに送りつけており、第一稿はわずか6週間である1982年8月初旬に完成した。スピルバーグはこの頃、『ジョーズ』を監督したが続編である『ジョーズ2』では監督を辞退しており、ルーカスは「インディにも同じことをするのではないか」と心配していたらしく、カッツは後に「ルーカスは彼が監督することを必死に望んでいました。私たちは、彼を保持できるように、本当に、本当に速くそれを行うように多くのプレッシャーにさらされていました」と当時を回想している[25]。
その後、9月までに第二稿が完成。プリプロダクション中に、ルーカスによる仮題「Temple of Death(直訳:死の神殿)」を「あまりにも暗すぎる」と考えたスピルバーグの提案で、正式題「Temple of Doom(直訳:破滅の神殿)」に変更された[23]。その後、1983年3月から4月にかけて、ハイクとカッツは最終的な撮影台本の書き直しを同時に行い、脚本が完成した[17]。 ショート・ラウンドのキー・ホイ・クァンは、ロサンゼルスのチャイナタウンで行われたオーディションで抜擢された。当時のキーは難民出身だったことから英語があまり読めず、インディとポーカーをする場面など即興劇で撮影された[26]。 撮影は1983年4月に始まった[27]。 ロケ撮影に関して、作中で描かれる奇妙な食文化や邪教信仰などインドやヒンドゥー教に対する偏見や人種差別に関わる内容が多かったため、当初の予定地だった北インドやアンベール城での撮影をインド政府に拒否された。このため、スリランカのキャンディでの撮影を余儀なくされ、村人役のエキストラたちもシンハラ語を話している。 吊り橋の設置には、当時ロケ地付近でヴィクトリア・ダム建設のため滞在していたイギリス人のグループが雇われた[17]。 撮影中に多くの問題も起こったが、8月26日、スピルバーグはスケジュールと予算どおりに主要な撮影を終えた[27]。 作品の「ジェットコースター的イメージ」を決定付けるトロッコのチェイスシーンでは、ミニチュアが多用された。走行中のトロッコを捉えるロングショットのほぼ全てがミニチュアであり、フィル・ティペットによるストップモーション・アニメーションも一部使用されている。
キャスティング
撮影ロケでのスピルバーグとラトナム(1983年、スリランカ)
特撮