1984年9月、ルーカスは『Indiana Jones and the Monkey King(直訳:インディ・ジョーンズと孫悟空)』と題した8ページのアイデア草稿を完成。ここでは、インディがアフリカで若返りの泉を見つける前に、スコットランドで幽霊と戦うという話だった[18]。その後、スピルバーグがプロデュースした『グレムリン』、『グーニーズ』などに参加したクリス・コロンバスが脚本として参加。1985年5月、コロンバスによって「桃源郷を舞台とする」「ピグミーや三船敏郎のような海賊を登場させる」などのアイデアを含む脚本草案が完成したが[18]、スピルバーグとルーカスが共に「今の私達がやりたい題材ではない」と思ったことや「この内容だと4か月間アフリカでロケをする必要があるが、年をとったしそれは大変だろう」とスピルバーグが感じたことから[16]、それらのアイデアを全て放棄しコロンブスも降板となった[18]。なお、この脚本は1997年にインターネット上に流出しており、印刷ミスで日付が1995年となっていたことから、多くの人はこれがシリーズ第4作『クリスタル・スカルの王国』の草案と勘違いしたという[19]。
その後、スピルバーグはインディの父親であるヘンリー・ジョーンズを登場させることを思いつく[20]。1986年1月、スピルバーグ監督の『カラーパープル』と『太陽の帝国』に参加したメノ・メイエス
(英語版)が雇われた。約1年をかけ、メイエスによって大まかなストーリーが完成[18]。その後スピルバーグは、ジェフリー・ボームにそのストーリーの改訂を依頼する[18]。ボームは、ルーカスと2週間をかけて物語を作り直し、最終的な映画とほぼ同じ内容の脚本を完成させた。この時、ボアムはルーカスに「これがシリーズの3作目であるという事実を踏まえると、前2作のように宝物を手に入れるだけで終わるわけにはいかない」「以前の映画ではキャラクター描写が十分でないと感じた」と、父と息子の関係を聖杯の探求より重要な要素にすることを提案したという[21]。聖杯を物語の題材にすることはルーカスのアイデアである。ただし、これに関してスピルバーグは当初「観客は『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』を連想してしまうのではないか」と心配したという[22]。
会話場面における台詞の考案には、トム・ストッパードがノンクレジットで参加。スピルバーグは「トムは会話のすべての行に関わり、ほとんどの責任も負っています」と語っている。
映画のオープニングをどうするか悩んだ際、ルーカスはインディの少年時代をプロローグとして描くというアイデアを思いつく。ボアムも、インディのキャラクターを深く掘り、観客に現在のインディ・ジョーンズ像がどのように誕生したかを見せたいと考えていたことからこれに賛成した。スピルバーグは当初「子供が登場する映画を作りたくない」とこれに反対したが、最後はルーカスの説得により同意した[16]。
キャスティングショーン・コネリー(1988年)
インディの父親であるヘンリー・ジョーンズ役に関して、このシリーズは元々スピルバーグが「007」シリーズのような作品を作りたいとルーカスに話したことがきっかけで作られた作品であり、スピルバーグは「インディ・ジョーンズの父親を演じれるのは、初代ジェームズ・ボンドであるショーン・コネリー以外はありえない」と考えていた[16]。そのため、第二候補にグレゴリー・ペックが挙がったりはしたものの[23]、真っ先に役はコネリーに依頼された。コネリーは当初、インディ役のフォードとの実際の年齢差は12歳であることからオファーを受けるか悩んだが、脚本を気に入ったことで最終的に受諾した[16]。
インディの少年時代を演じたリヴァー・フェニックスは、『モスキート・コースト』で共演したフォードによる「活躍していた若手俳優の中で、最も自分と似ていると感じた」との推薦で起用された[13]。