インディアン戦争
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黄金に代わってウラニウムや石炭、水といった保留地の地下資源が、合衆国の収奪対象となった。現代の「インディアン戦争」は、地下資源の収奪と環境汚染、そして「西部劇映画」や「インディアン・マスコット」問題に象徴されるメディアやスポーツにおける歪曲された民族イメージの概念固定化が大きな問題となっている[13]

1973年にスー族保留地内の「ウンデット・ニー」で、オグララ・スー族と「アメリカインディアン運動 (AIM)」が同地を占拠し、「オグララ国」の独立宣言を行った「ウンデッド・ニー占拠抗議(英語版)」(のちの連邦裁判で無罪判決を受けた)では、全米からインディアンが応援参加し、非武装のインディアンたちに対して合衆国とサウスダコタ州が戦車や戦闘ヘリを投入した武力鎮圧となった。

2003年、100年近くに及ぶインディアンたちの要求運動によって、「リトルビッグホーンの戦い」の主戦場が「カスター国立記念戦場」から「リトルビッグホーン国立記念戦場」に名称変更された。同時に「インディアン戦争」を戦ったインディアンたちの「インディアン記念碑」が建立され、地図と解説の書かれた石壁が設置された。この石壁には次のような文言が彫り込まれている。

“The Indian Wars Are Not Over.”(インディアン戦争は終わっていない)
戦争の根本要因

この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2020年3月)

コロンブスの上陸以来、白人たちはインディアン部族が、アフリカの部族社会のような「酋長が支配する首長制の部族社会である」と勘違いしていた。実際にはインディアンの社会は完全合議制民主的社会であり、「王」や「首長」のような個人の権力者は存在しない。「大いなる神秘」のもと、人と動物すら明確に区分されず、平等に共有されるのがインディアンの社会であり、まして大地は誰のものでもなかった。
土地に関する誤解

合衆国は植民地化を進めるにあたり、まずインディアンから領土を「購入」しようとし、「物品」と引き換えにこれを行った(つもりだった)。しかし、これは、インディアンの共同体から見れば「白人が贈り物をして、ここに住まわせてくれと言って来た」ということになる。白人は「ここから出て行ってくれ」と言ったつもりだが、インディアンはこれを理解していない。元より彼らに「土地を売り買いする」という文化習慣が無いからである。

インディアンは和平を結ぶ際、和平の「ロングハウス」、「ティーピー」などで「会議の火」を囲んで車座になり、「聖なるパイプ」で煙草を回し飲みし、「大いなる神秘」に和平を誓う。全ての存在が「大いなる神秘」の中にあると考えるインディアンにとって、「大いなる神秘」との盟約であるこの行為を破ることは絶対にあってはいけない誓いである。

白人たちは上記にあるように「土地を買った」つもりでいるので、この誓いを破った。インディアンを追い出そうとし、あまつさえ彼らを武力で虐殺したのである。「インディアン戦争」は起こるべくして起こったのだ。
部族の制度に関する誤解

インディアン戦争の中で、白人たちは酋長を部族の代表、部族長だと考えていた。「部族民たちが敬愛する大戦士」を大酋長だと思い込んで彼らをそう呼んだ。白人には大戦士も酋長も見分けがつかなかった。酋長(Chief) とは実際には、部族の調停者、世話役、あるいは奉仕者であって指導者でも部族長でもない。インディアンの社会に指導者も部族長もいない。個人が権力を持つ上意下達のシステムを持たないのである[14]

しかるに白人たちはインディアン戦争を行うにあたって、酋長あるいは大戦士を部族長だと思い込み、和平の調停や交渉の責任者とみなした。酋長の署名として「×印」を書かせ(インディアンは文字を持たない)、これを「部族の総意」と解釈したのである。もちろんこれは全くの誤解であって、合議を経ていない部族の総意はあり得ず、インディアンの戦士たちは戦いをやめなかった。

またインディアンの戦士団を白人は「司令官が統率する軍団」だと勘違いしていた。これもまた全くの思い違いで、インディアンの戦いは自由参加であって、彼らは軍でも兵でもなく、誰に率いられるような集団でもない。合衆国はしばしば「インディアンが協定を破って攻撃した」としているが、協定を破っているのは白人側だった。

インディアンの社会は細かいバンド(集団)に細分されており、それぞれが自治を保ち自分たちの判断で動いていた。すなわちインディアンの部族は一枚岩ではなかった。これをまとめて従わせようとする合衆国の考え自体に無理があった。インディアンの部族で、最終的な判断を決めるのは長老と酋長たちの大合議だけである。これは現在のインディアン社会でも変わらない。

こうして「インディアン戦争」において合衆国は本来は交渉役である酋長を「戦争の司令官」だと誤解し、彼らの殺害に力を注ぎ彼らを捕らえては死体を散々に凌辱した。根本的に白人たちはインディアン文化を勘違いしたまま延々とインディアンの虐殺を繰り返したのである[15]
白人の植民期

1620年ピルグリム・ファーザーズアメリカ東海岸プリマス植民地に到着した頃は、インディアンと白人の友好関係があった。厳しい冬を越すために、むしろインディアンに助けられて入植者が定着できたという面もあった。ただし、全ての地域でインディアンが友好的に白人を迎えたわけではなく、インディアンに様々な部族があったように、白人を迎えたインディアンの対応は様々であり、16世紀前半のフロリダのように有無を言わせず退去させられた例もあった。17世紀前半のフランスの場合は、敵対するインディアンの一方に荷担して、まだ銃火器を持たないインディアンを圧倒するようなことがあった。

インディアンは、その狩猟生活に貴重な道具となった銃を供給してくれ、かつ様々な商品を交易したり贈り物を届けてくれる白人とは友好的な関係を保った。しかし、いち早く銃を持った部族は他の部族を圧倒する力を持つようになった。17世紀前半のイロコイ連邦がまさにこの典型的な例であり、アメリカ北東部のかなり広い範囲を勢力下に収めることになった。

ジェームズタウンとイギリス人が名付けた最初期の植民地では、植民請負人ジョン・スミスが、飢えた入植者の食料確保のために、各地のインディアンの村を襲い、酋長を人質にとり、物品・食料を強奪した。スミスはポウハタン酋長を「ポウハタン族の皇帝である」と大英帝国に出鱈目な報告を行い、対インディアン政策を誤解の下に進めさせるきっかけを作っている。

一方で、白人の持ち込んだ様々な疫病は、免疫を持たないインディアン部族を激減させ、その力を削いでいった。絶滅した部族も多く、縮小した部族の多くが別部族の傘下に入り、北東部での勢力図は白人との戦争と疫病によって大きく変えられていったのである。
最初の抗争詳細は「ジェームズタウンの虐殺」を参照

1610年代から様々な理由で、多くの小競り合いが入植者とインディアンの間で行なわれた。最初の抗争がどの戦闘であるかは諸説あるが、ジェームズタウンの虐殺がよく知られている。

1622年3月22日アルゴンキンポウハタン族のオプチャンカノフ(英語版)がバージニア植民地を攻撃し、ジェームズタウンで347人が死亡した。
インディアンと白人の抗争の開始

インディアンと白人の間で大規模な抗争に発展した最初期のものは、1637年ピクォート戦争が挙げられる。この戦争は、イギリス人交易業者の1隊が殺されたことに端を発し、マサチューセッツ湾植民地プリマス植民地の白人が、ピクォート族と敵対していたモヘガン族を利用してピクォート族を殲滅するという結果になった。入植初期のピルグリム・ファーザーズは、インディアンから土地を購入するという形を採っていたが、この頃から清教徒が大挙して入植するようになり、入植者が勝手にインディアンの土地に入り込むというような形態が生まれた。

1650年代になると、イロコイ族がヌーベルフランスの入植者を襲うようになった。これに対してフランスが軍隊を組織して反撃を行い、一時的に休戦時期はあったものの、この敵対関係は約半世紀続いた。この戦争はビーバー戦争と呼ばれる。イロコイ族のように一時敵対していたものが一旦和平を結ぶと、その同盟相手が他の白人と戦争を行う場合は強力な戦力となった。

17世紀中頃から後半にかけて、ニューイングランドは何度も疫病の流行に悩まされ、免疫力の無いインディアンが大きくその数を減らした。1670年代のニューイングランド南部の人口は、白人35,000人に対してインディアン15,000人と大きく逆転していた。1675年、それまで白人に対して友好的な姿勢で臨んできたワンパノアグ族メタコメットたちが反旗を翻した。白人はメタコメットを「指導者」と勘違いして「フィリップ王」と呼んでいたので、この戦争はフィリップ王戦争と呼ばれている。ワンパノアグ族の攻撃でポートランドなどの入植地は壊滅的に破壊されたが、ニューイングランドを挙げての反撃と他のインディアン部族も白人に味方したことで、ワンパノアグ族も最後は大敗し、その人口は10分の1以下になったとされている。

18世紀に入って、それまで比較的平穏であったカロライナ植民地で、インディアンの反乱が続いた。1711年に始まったタスカローラ戦争と、その終結後、間も無い1715年ヤマシー戦争である。


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