よって、保留地は、「インディアンが農業を行うための土地」となった。 が、ほとんどの保留地は農業不可能な不毛の原野である。連邦政府が西部の部族に対して行った農業指導の実態は、いきなり農耕文化を持たない狩猟部族に使い方もわからないトラクターを渡し、農耕を命令するという、現実離れしたものであった。
バッファロー狩りの出来なくなった平原の部族には、代わりに「年金」として、保留地事務所より、肉牛などが支給されることになったのであるが、上述のようにそれは半ば戦略的にBIAの保留地監督官によって横領され、常に数が不足していた。農業経験のないインディアン達は飢え、冬をしのぐために種牛にまで手をつけざるを得ず、飢餓は年次倍増していった。
条約が結ばれて保留地に強制移住させられ、しばらくすると、移民の増加で実情が合わなくなり、また新しい条約が強要され、保留地が縮小される。保留地を巡る条約交渉の歴史は、この繰り返しであった。現在も連邦政府は「インディアンの自立」を掲げる。しかし、インディアンはそもそも白人と出会う以前から自立していたのである。保留地の歴史すべてが、条約違反の繰り返しの上に成り立っている。 保留地には、一定の自治権を認めた条約規定に基づき、BIA直轄の「部族評議会
保留地の現在
保留地は「連邦政府」との条約規定によって存在しているが、その土地は「州政府」の管轄内にある。このため、部族政府は「自治政府」、「独立国家」を名乗りながらも、常に連邦と州の双方を相手に交渉ごとを行わなければならない矛盾を負わされている。(この状況は条約に違反している)
ほとんどすべての保留地は産業を持てず、貧困にあえいでいる。また、保留地で生活する限り、そのインディアンにはわずかながら条約規定に基づいた年金が入るため、これに頼って自立できない人々も多い。失業率は半数を超え、アルコール依存症率は高い。保留地には産業や就労先がないため、年金を捨て、保留地外に出て生活する人たち(シティー・インディアン)も多い。
20世紀頃までのアメリカではネバダ州とニュージャージー州以外でカジノが実質禁止だった。対して、保留地内では自治権を認めた条約規定で設立可能であり、それを活用することでインディアン・カジノ(「現代のバッファロー」とも称される)として成功した保留地もある。しかし、州が州法を盾にギャンブル事業の認可をしないために「切り札」のカジノを持てず、身動きできない部族も多い。これも連邦法と州法の双方から縛られるインディアン保留地の矛盾を示す事例のひとつである。
現在の連邦政府の方針としては、1950年代からの流れとして、部族の意向を無視して「保留地」を解消していこうという方向にある(これは条約違反である)。「インディアン」という特別な存在ではなく、「アメリカ市民」として納税させ、国民の義務を負わせるというのが、当初からの政府の命題だったからである。これに沿った「インディアン寄宿学校」による強制同化政策によってインディアンの同化が進み、20世紀初頭からすでに、部族独自の純血性、民族性は薄れたとして、様々な部族が絶滅認定され、保留地を没収されていった。ただし、この揺れ戻しとして、近年再び部族の結集を図り、「保留地」の再獲得を果たした例もある。 目次 : A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z 2000年の時点で人口38,543人。
居留地のリスト
A
アコマインディアン居留地
アクチンインディアンコミュニティ
Allegany居留地、ニューヨーク州
B
ベイミルズインディアンコミュニティ(BMIC)、ミシガン州チペワ郡
BigCypressインディアン居留地
ブラックフットインディアン居留地 ※シクシカ族(ブラックフット族)の保留地。スー族の支族シハサパ族(ブラックフット)とは無関係。
Brightonインディアン居留地
C
CampVerde居留地
Canoncitoインディアン居留地
Cattaraugus居留地
Chemehueviインディアン居留地
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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