インダス文明
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4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。

こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。

2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖(英語版)を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした[3]

また、遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする[4]。また、インダス文明期には、海面が現在よりも2 mほど高かったという調査がある。これにより遺跡の分布を調べると、インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる[5]

そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。
アーリア人侵入説
アーリア人」および「アーリアン学説」も参照インダス文明滅亡の原因は古くから論争があり、第二次大戦後にはM.ウィーラー(英語版)によるアーリア人侵略説をはじめとする外部からの侵略説が唱えられた。

発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。

また、『リグ・ヴェーダ』などの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、層位関係を考えずに地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではなかった。

その他、虐殺跡とされた人骨には外傷の形跡がなく、アーリア人の侵入とインダス文明衰退の年代には相違があり、『リグ・ヴェーダ』の記述の史実性にも問題が指摘され、現在では否定されている[6]。日本においても第2次世界大戦前にアーリアン学説を補強する学説が発表された。

この説では、インダス文明は南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人の祖先によりつくられたと推定されている[7]。また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり[8]先住民族であるドラヴィダ族を滅ぼしてヴァルナという身分制度を作り上げたという説がある。
滅亡後の地方化期(紀元前1900年 - 紀元前1300年)ヴェーダ期の地理
ガンダーラ墓葬文化(英語版)(Swat)
H墓地文化(英語版)(Cemetery H)詳細は「ヴェーダ期」を参照

ヴェーダ期(紀元前1700年 - 紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化(英語版)となった事を示す墓地が発見されている。この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教紀元前1000年 - 紀元前500年)が形成されたと考えられている。

ヴェーダの宗教は、後のバラモン教ヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。この文化と同時期に栄えた赭色土器文化(英語版)は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。
十王戦争から十六大国まで(紀元前12世紀 - 紀元前6世紀)詳細は「十王戦争」、「十六大国」、「キュロス2世#中央アジア征服」、「ガンダーラ」、および「カンボージャ」を参照

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発見の経緯

文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、イギリス支配下の19世紀になってからのことである。

1826年に探検家のチャールズ・マッソン(英語版)がハラッパーにある周囲約5 kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「紀元前326年アレクサンドロス3世(大王)を撃退したポルス王の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。

1831年にもアレクサンダー・バーンズが調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。

イギリスは既に18世紀にアジア協会を設立しており、インドに赴任していた元軍属のアレクサンダー・カニンガムが同協会の元でインドおよびパキスタンの考古学の基礎を築くことになる。

カニンガムは1853年1856年に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した[9]。カニンガムは1862年インド考古局の発足に尽力し初代局長となるが、この頃から鉄道敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。

その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる[10]
遺跡インダス文明諸都市の分布ドーラビーラ詳細は「インダス文明遺跡のリスト(英語版)」を参照


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