インターマックス
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今中 大介(いまなか だいすけ、1963年7月24日 - )は、元自転車ロードレース選手、実業家広島県広島市安佐北区可部出身[1][2]。愛称は「イマニャカ」。現在は株式会社インターマックス最高経営責任者(CEO)。
人物

広島市立可部中学校?広島城北高等学校?大分大学大学院工学研究科卒業[2]

株式会社インターマックス代表取締役。「日本人で初めて近代ツールを走った」人物でもある[3]

叔父(今中の母の弟)に漫画家あすなひろしがいる。
経歴
渡欧まで

大分大学で修士号を取得した後、シマノに入社する。シマノではテストライダーをしていたと自著で回想しており、ロードレーサーにもMTBにも散々乗ったという。

シマノの社員としてツール・ド・北海道総合優勝(1990年1991年1993年)を始めとする国内の自転車レースタイトルを次々と獲得したあとの1994年、31歳の時に渡欧する。
渡欧

ヨーロッパではシマノからの出向扱いでイタリアの名門プロチーム「チーム・ポルティ(Team Polti)」に所属し、今中もアシスト選手として活動する。渡欧初年度は日欧のレベルの差に苦しみながらもエースのジャンニ・ブーニョジャモリディネ・アブドジャパロフのアシストとしてアタック潰しやボトル運びに従事し、徐々にチームメイトの信頼を得る。主な成績はグラン・プレミオ・チッタ・ディ・リオ(Gran Premio Citta Di Rio)15位など。この年の世界選手権には、今中をはじめ市川雅敏、山田隆博、藤野智一らとともに出場するも全員リタイヤとなった。

渡欧2年目の1995年にはジロ・デ・イタリアに出場した。スタンガ監督からは「二三日でやめるな」と釘を刺されての出場であったが、結果的に今中は全体の3分の2に当たる14ステージまで参加するも、第12ステージで落車に巻き込まれて顎を数針縫うケガを負い第14ステージ途中でリタイアとなった[4])。なお、この時、イタリアのメディアからは「シマノの技術者がジロ・デ・イタリアを走っている」と受け止められていたとのこと[5]。ジロをリタイアした後はしばらく休養を取り、8月下旬よりリーズ・インターナショナル、クラシカ・サンセバスティアン、ブエルタ・チクリスタ・ガレガなどに参加。ポルティとの契約は2年であったが、1年の延長となった。

3年目の1996年は春先から好調で、2年目までの今中のイメージを覆すような果敢なアタックや引きを見せ、周囲の選手たちを驚かせる。なお、3月24日にはレースのスタート直前に長男が誕生したとの一報が伝えられ、審判車や選手たちに祝福されながらのレースとなった[6]
ツール・ド・フランス出場

この年は念願のツール・ド・フランスにも出走[7]。日欧のメディアや主催者からは「日本人初のツール・ド・フランス出場」として扱われ[8]、今中も「イマナキャ」と呼ばれて大きな注目を浴びた[9]。レースではエースのリュック・ルブランのアシストとして働き、第1ステージや第4ステージではトラブルで遅れたルブランを集団まで引き戻す役割の一角を担った他、アタック潰しなどでチームに貢献した。

だが第2ステージから延々と続いた悪天候の為、今中は第3ステージ終了後に風邪を引いてしまい、以降は激しい咳や貧血に苦しみながらのレースとなった。それでもアルプスの山岳ステージはこなしたものの、ピレネーに入って膝裏の故障が限界に達し、チュールにゴールする第14ステージでタイムオーバーによりチーム3人目のリタイアとなった。このステージは序盤に2級山岳があり、その後は3つの4級山岳がある他はほぼ平坦で、最後が3級の上りゴールとなっていた。今中は2級山岳の頂上を越えた後の平坦区間で集団から千切れたが、集団はその後も終始アタックがかかる状態であり、結局ステージ優勝のジャモリディネ・アブドヤパロフは平均時速45キロメートルでゴールした。最終的に、今中はステージ後半の100kmほどを単独走行する羽目になり、タイムオーバーとなった。ちなみにこのときのタイムオーバー基準は先頭から25分弱であった。この日は今中を含め3人がタイムオーバーとなっている[10]。41分遅れの最下位でゴール地点に到着した今中は、観客に「アレ! イマナキャ!」と励まされながらゴールし、涙を流した[11]

結果、ツール・ド・フランスのリザルトは順位無し、今中も途中でリタイヤとなった。

4年目は今中の現役最後のシーズンとなり、ジャパンカップ4位をもって引退した。
引退後

今中は1997年のジャパンカップ終了後に現役を引退し帰国、シマノを退社して翌1998年に自転車専門の商社である株式会社『インターマックス(InterMax)』を設立する。それまでのキャリアで培った人脈と経験を生かして海外の自転車用品を輸入している他、自身プロ選手・エンジニア(今中は工学修士号を持っている)であった経験をもとにレース用の自転車フレームを開発していた。国内のロードレース界からの人脈の豊富さは選手時代から変わらず、自転車雑誌への寄稿、イベントなどの参加を通し、スポーツ自転車の普及・啓蒙に尽くしている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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